潜る



 
昨日は久しぶりに「背骨」に遊びに行った。店内になぜか、誰もいなかった。向かいの店の改装工事をされているそうで、品物を買いに呼びに行ったら木屑はたきながらお会計をしてくれた。最近好きな漫画の話と、背骨店主の吉田さんがはまってる音楽の話や料理の話をして、店を出る。
 
今取り組んでいる絵を描く気が起こらず、今朝はウォーミングアップ的に無心で家にあったもの(満月みたいな梨)や昨日背骨で買ったもの(筆立てにした)のスケッチをしていた。
今まで絵がうまくいかないとき、ただ描かないことが大切だと思っていたが、案外手を動かし続けるのも悪いことではないのかもと気付く。
絵の中に拠点をうつして、そろそろ現実を諦めたい。息継ぎのタイミングで現実に戻るみたいな暮らしをしばらくしたい。潜りたい。現実の自分は弱すぎるし頼りなさすぎるしどうしようもなさすぎる。
そのためにも、自分の中にある統合できない絵柄のようなものを、統合しないで遍在していいよと認められるようになれたら良いんじゃないかと、無心のスケッチをしていてはっとした。もう少し年をとったら、自分は大丈夫になれる気がする。
描けないだろうと思っていたものを描けたとき、ひどく安心した。引っ越しみたい。たくさん描けるものを増やして、ゆっくりと引っ越しをすればいい。
 
どこにいっても虚無感が背に張り付いているようなとき、やばいなあ、と思う。絵を描くのはなぜこんなにときめきに満ちているんだろう。わからないこと(死や失うこと)を恐れて不安に生きているのに、自分だってわからない自分の絵の中のことはずっとわくわくできる。
背骨に行くたびに、海でも森でもないなにかに潜ったような気持ちになる。あそこが店主吉田さんにとって呼吸がしやすい場所なのかもしれんと思った。お店って良いなあ、と一時期思っていたときに惹かれたのはそういうところなのかも。私も呼吸がしやすいところに住みたい。
 
潜る、潜る。
同じ日に、職場でもあるるすばんさんでやっていたまつむらまいこさんの展覧会をぐるりと見た。 <見た>というより<体験した>という表現の方がしっくりするような気がする。
本という形になる前の、もっと根源的で形になる前のもやもやに、すっと入り込んでは潜っていくような。
かなしいことは何もないのに涙が出そうになる。なんだか使うのが憚られる「やさしさ」という言葉を信じさせてくれる強さがあった。でも風のように軽く、金木犀のにおいみたいに儚い。 いろんなものから解放されて自由になれるみたいに、そしてその先で私は楽しく暮らしていて良いよと言われたみたいに、安心させられた。