壺の夢


暑すぎて外出を諦め、今日は家で小川美潮の歌を聴いたり、小川未明の本を開いたり(小川ばっかりだ)、空想の花の絵を描いたり、冷したブランデーケーキとアイスコーヒーでお茶をしたりして、一日を明かした。よい休日だった。

お風呂に入り、お湯を浴びながら、空想で絵を描けるようになったのはどう云う心の変化だろうと考えた。そこに在るものしか描いてはいけないというような強迫観念に近いものが片隅に居たというのに。現時点での結論は、視力が立体的になったからではないかと思う。心で観る事が少しできるようになってきた気がするというか。日常生活を送っていても、その影響を感じる事がある。まだうまく言語化出来ないけれど。
そしてもう一点、自分の絵を人に自慢できるようになったのはなぜか考えた。それについてはまず、自分の絵は自分ではないという事が明確となってきたこと、後、自分の絵は自分だけで描いた訳ではないという意識を持つようになってきたこと、が原因かしらと思った。後者について少し潜ると、表面的な部分に関しては私が筆を動かしているけれど、絵の具も色そのものも筆もモチーフも形も私から生まれたものではないのだから、私はそう言う画材やモチーフなんかに描かされてるだけなんじゃないかという、疑惑。(選択の繰り返し。) もうすこし深く行くと、画材やモチーフが存在するこの部屋、関わる人、社会、環境、…そのようなものに描かされているだけなのでは。(自分の意思で選択しているようで、けれども、そもそも意思とは社会に創られている気がするから、私はどれ、どこにいるのだろう、それは、鑑賞者が知る事かな)
作者とはなんなのか、わからなくなってくる。本の表紙なんかに、著者しか載っていないものに違和感をおぼえるのだけど、それと似ている。
絵は不思議なもので、描いているときはまるで青春のような「絵と私」だけの世界ができるというのに、完成した途端に自分の手のひらから去っていく。筆を置いてから、もう口を聞いてもらえず、私が舞い上がっていただけ。絵というのは生まれるべくして生まれた、だれのものでもない「絵」である。、…かも。なんだか少し、はずかしいような、青臭いような、ばかばかしいような、、可笑しい話。


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