シャワーを浴びて、髪の毛を乾かして、シャツを着て、かばんを持って、鍵をにぎりしめて、電気を消したのに、外に出ることができず、真っ暗な部屋で、わからないことばの知らない歌を、イヤフォンで聴いてた。長いこと、絵がうまくいかない。画材があってないのかもしれないと思って、油彩道具を揃えてみたり、色鉛筆を買ってみたり、新しいスケッチブックや厚紙を用意してみたりしたけれど、今のところどれもしっくり来ない。どれも、楽しいけれど、虚しくなってくる。虚しくなるのは、危険だ。
いつも使っていた画材はアクリル絵具だった。先日、久しぶりにアクリル絵具を使ったら、絵の具の軽さと、水の心地よさに、おどろいた。長いこと、本当に長いこと、私はわすれものか、おとしものか、すてきな石や陶片か、分からないけど何かを探して心の中の住宅街を徘徊してる。徘徊していると、自分はだれだったかわかんなくなる。静物描いているとき、目の前に静物をならべて、それを見て描いているけれど、私は本当にそれを見ているのか分からない。心の中の、私の部屋の、机上におかれた静物をかいてるのか。私は、私が、何を描いているのか、何を描きたいのか、分からない。なにかを描きたいことだけが、確かなこと。
自分の中の疑問について、描いていると分かった気になる。が、それはだいたい、あてにならない。数日後には、ちがうちがうとなっている。自分の感覚や言葉はあまりにも不安定で、完成した絵のほうが頼もしい。ほんとうに、そう。私は私の絵を偉大だなーと思うけど、私は、私というのは、ことばにするのが難しいけど、いろんなものに適応できない人。
自分は自分のことを絵描きだと思っているけど、本当の意味の絵描きじゃないのかもしれないと、さっき考えた。絵を描こうとするからしっくりこないのであって、自分を、詩人だということにしてしまって、詩を書くように描いたら、うまくいくんじゃないか? と思った。地に足のつかないようなばかげたはなしだけど、肩書きについてかんがえるのは、重要な気がしているんです…。
さっき聴いていた歌がよかったな。
有名な歌なんだろうけど、私は今日までしらなかった。まっくらな部屋で、ビデオも見た。メイキングも見た。
あのビデオのように、私は、水中で、息が出来なくなりたいんだ。息ができなくなりながら、甘いリンゴのにおいや、瓶と瓶がぶつかって、りん と音がするのがきれいだったことを、思い出したいんだ。
絵を描いてると、ときどきそれができる。息が苦しくなってぱっと水中から顔をあげたときのような心地よさを体験することは、まれにある。
私の、なんでもないらくがきや、雑な文字にだって、私が生息しているはずなのに、なぜそれらは絵画にできないんだろうと、悶々とする。
何十年かあとにこのブログを振り返って読んだとき、大丈夫、大丈夫、老いで解決されるんだよ。それは、青さの積み重ねでなんとかなったよって言いたい。
残念ながら老いてからも、思ったよりお前は変われてないよ。ずっと、ばかなままだよ。とも、言いたいような、そんな気もする。
いや、ばかなままじゃだめかなあ。