2022-04-03






狩野岳郎さんの展覧会を見に渋谷のNIDI GALLERYさんへ。近くで見て、遠くで見て、なるほど!となってからもう一度近くで見る。狩野さんの作品は、抽象的な絵画になったり、具体的な景色になったり、雨音のようなリズムになったり、音楽になったり、物質になったりする。
目にうつるのは物理的に描いた域のみだけど、頭のなかにうつるのは見ている絵の虚像のようなもの。狩野さんの目でみつめる日々を自分の頭の中で再構築したらこんなふうになるのかと思った。しずかな部屋、植物と油のにおい(ウォールナットオイル/胡桃から抽出したオイル.を使っていると教えていただいた。そのにおいを想像する!)で心地いいな。
会場によって絵が変わるという話もおもしろかった。人ってすごいし、おもしろい(語彙、、)。作品に反映するのは、日々のささいな出来事から、因果関係まで、すべてだなあ。社会の問題をテーマに描かなくても無関係ではいられないように、描いてある[もの]だけが描いてある[こと]じゃないということが、裏付けされた感じがしてちょっと安心。絵は巨大な木のような根をはっている。それでも遠くから離れると小さな種となって、また誰かの頭の中で新しい木になり、花が咲いたり果実が実ったりする。
果てしなくて、私の人生なんかちっぽけに思える。
 
最近紙に油彩画を描いている。(狩野さんのスケッチも紙に油彩(!))カンバスに描くのがしっくり来なく、尊敬する画家に聞いて教えてもらって使いはじめたけど、だいぶよい。絵を描く時に腰が重いのが一番よくなくて、それを回避するために紙。保存や強度の事ももちろん大切だけど、それによって気分が消えて行くことの方が大きな損失なので、今は深く考えずやってみている。暮らしとともに描いて行きたいものだ、皆さんはどうですか?
...しかし最近の自分の腰と絵は重い。できた絵、乾いてなくてまだ分からないけれど惜しい感じじゃないかなあ。油彩、めちゃ楽しいけど難しい。色々試そう。

私の家には以前狩野さんからいただいた小さな多肉植物がある。黄緑と桃色のまるくてかわいい小さいのの連なったもの。切り花のような分かり易い変化がなく石のような雰囲気が漂っているので本当に生きてるの?と思っていた。帰って来てそれを見ると、いつのまにか、よくみるとそのまるのひとつが一個増えていたし、その後ろに小さいまるができてた。毎日見てたのに気付かなかった。すごいなあ。

自分の絵について、たまーに窒息しそうな感じになるときがあり、それが今夜やってきた。りんごを描いていたけど、なんてつまらないりんごの絵だと思った。そんな気分になるのは久しぶりだった。狩野さんの絵の立体的な多面的な構造にしびれたからかな。
いつもだったらそれに落ち込むけれど、そういう感覚は詰めて行くと若さゆえの柔軟さがある証拠でもあるので、、大事にしよう。なので大丈夫だと思う。久しぶりにいくつもの栄養まんてんな絵を見れてうれしかったー。