まぼろしの解体



数日の時差で、ようやくわたしも(精神的に)年を越せ、正月休みまで終えたようなのだが、頭も体もはたらかない。そろそろ描き始めたいところだが、花を買いに出る勇気がない。ここ数日は壊れたパソコンみたいな動きをしている。昨日は中くらいの西瓜半玉を一人で食べ切った。 
 
今日もぼんやりのなか、ほしいものについて考えていたらなんにも出てこなく、ある日急に異常な物欲がわくことはよくあるのになんでだろうと考えていて、それは多分、ほしいものがほしいというわけでなく、足りない気がしてほしくてたまらなくなっているだけの、ある種のまぼろしなんだろうなと思った、ところで、年末にこっそり注文していた料理のレシピ本が届く。一ページごとに大事にめくってみたら、久しぶりに文字が読めた。食べるように読めるのは料理家の言葉だからか。
 
去年の暮れに、何度も本屋の料理本コーナーに立っては絶望して何も買えず帰っていた時があった。ぺらっと開いたページに載っていたレシピは、丁寧さもラフさも、その人の日常そのものに見えた。いつでも脱したい自分の生活を思い出すと、誰かの生活は眩しく、自分の生活が心底嫌になる。気持はちゃんとホンモノだが、この眩しさについては、同じ種類のまぼろしである、と思う。レシピ本をみるたび消耗していたのは、ひとつひとつのレシピを、矯正的に捉えていたからだ。これを作りたいなと思ったら作ったらいいだけなのに、自分はそれを作れるような心持ちの人間ではないというところに着地していた。そこで、足りないという気持ちを心に足して、眩しいまぼろしを見る。実際に足りないのはレシピに載っている材料や道具だけで、心持ちとか土壌とかはあまり重要でなくて、多分もうすこし、軽率でいい。ということ。
 
本の中の一ページで、しばらく分のまぼろしを解体できた。よかった。
 
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料理って、そういうものだと思います。
床に新聞紙をしいて絹さやの筋を取っていたり、カレーを作ろうと大量の玉ねぎの皮をむいていたり、にんじんの皮を、できるだけ薄くむこうとしていたり。明日のために豆を水に浸けていたり、だめになる前に、 きゅうりを漬物にしようとしていたり。
それをしている自分のことを想像してみて、もしも嫌いだなと思ったら、そういう時はべつに料理なんかすることはありません。 
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(『新装 高山なおみの料理』引用 )