ただのハコ

 
(2025-10-5)

(2025-11-10)

(2025-11-19)

(2025-11-25)
 
長いこと放置状態で、ハコ化していた新しいパソコンに、今晩ついに切り替えたいため、万が一のことを考え、たまっていた絵の写真をUP。このパソコンには、大事な写真とか、花のスキャンデータとか、入稿データとか…、不安要素が全部つめこまれている。嫌だなあ。うまく移行できるかなあ。いっそ全部パーになって解放されたい気もするが、猫の写真がなくなったら数十年立ち直れる気がしないので、USBにしっかり保存しました。
絵とは関係のない本日の報告でした。

花 ✤ 展覧会の記録 @リーダン・ディート












 













 
✤ ✤ ✤
 
「花」

会期:2025年11月1日(土)-16日(日)
場所:リーダン・ディート
   (広島県広島市中区本川町2丁目6−10 和田ビル 2階)

✤ ✤ ✤
 
✶ special thanks ✶


企画:熊谷麻那さん
DM:古本実加さん
絵の撮影:清政光博さん(リーダン・ディート)
心のサポート:広島のあたたかなみなさま

大事・一大事

 
 
大事なことは大事だが、思ったよりも大事ではない。大事なことよりも、例えば身体の冷えや、空腹のほうが一大事で、大事なことにしがみつくよりも大事なこと、というのは、きっと山ほどあるんだと、歩きながら思った今日。なんにもうまくいかなくても、生きていれば嬉しいことはある。楽しいことはある。 ベランダの吹く風に運ばれた知らない花の花びらが、多肉植物に張りつくようなことだってあるのだから。

歩く大木

 

 
花の絵の区切りがついて、おやつ買いがてら散歩に出たら、電線より細い月が光っていて、思わずカメラを取りに帰った。冬の夕空。帰る頃には空は青く静かだった。この青はカメラにはおさめられないし、どんな絵よりも綺麗な色だと思う。青い時間に歩いていると、自分が大木のように思う。不確かなものの蓄積を感じ、多幸感に包まれ、それで、結局、どうしようもなく淋しくなる。

<変わること>はとても難しいが、<変わろうと思うこと>はあっけないほど簡単で、その決意に嘘をつかない自分でいたらいい。冷静になればそう思える。何回も何回も頭の中で唱えた。失われた部分を、感傷も着色もなくそのままに、いつか見つめたい。そのときまで大事にしていたい。幻覚や誘惑に惑わされないように、しっかりとした土壌を築きたい。私のいちばん大事なことはそれであって、その他は幻想で誘惑だ。ばかげたことに気をとられすぎている。私は、変わりたい。強くも弱くもならなくていい。ただ、大事なことを大事に出来る、土壌を築きたい。未熟だ、未熟だ、と言ってしまうのは心のスキマがあるということで、最近の自分の場合、スキマは出来る限り具象的なもので埋め尽くしたく、タンパク質か歩くかのどちらか埋めたくて、今日はタンパク質を80gとれた。歩数は全然。
見定めろ、見定めろ。今日も明日もあさっても、がんばろう。

平温、平然


飽きるほど描くというのは苦痛だろうし絵にも表れるだろうし観てくれる方にも飽きられるかもしれないが、自分はそれがいいと思う。感情で動かされず平温の絵を平然と描けるようになりたい、まあ無理だろうけど。

寒くなってきたせいか不安が炸裂してきて、昨日は歯痛で歯医者に駆け込んだのに何もなかった。痛みもいつの間にか消えているし、恥ずかしい思いをした。そのあいだにも花は少しずつ枯れて。無心でポテサラを作った。

今日は昼間は外出して夕方に帰宅。間接照明が壊れてしまったために暗すぎて描けず、切り上げてコーヒーでも淹れようとするも豆がない。気を紛らわしついでにコーヒー豆を買いに出る。徒歩10分ほどでお店に着き、とんぼ返りで帰宅。帰り道には夕暮れみながらオカダさんの『小さな音』を聴いていて、今日は「絵を描こう」が気になった。 帰ってきて歌詞カードを読んで、最後の詞がすごく好きだった。
 
人間の世界に暮らす不安は
かたちで 色で 線で描こう
なんにも 別に いらないだろう
鉛筆1本 あればいい

花と蜘蛛

 

描いていた花を気に入ってしばらく居座っていた蜘蛛。
怖くて、動くたびに戦慄しながら描いた。
虫を怖いとか思わず、仲間のように思える人だったらよかったのにとか。ためいきと同じようにふとしたときに出る雑な願望、執着。こんなくだらないものたちにずっと囚われて生きている。
昨日は本屋で料理本を何冊も立ち読みして、一冊も選べず帰った。本の先にある自由でしなやかな暮らしとは似ても似つかない自分の生活に悲しくなってばかばかしくなった。わたしはいつでも何かから脱したいと思っているが、脱したその先の風景は本当に自分なのか?電車でよくわからなくなる。
 
負わなくていい傷ばかり作って、今日は起きたら13時。何に疲れているんだと振り返るとまたばかばかしくて嫌になる。せめてそこに悪意があったならなどと、腑抜けの言い訳。これは勝手に転んでできた傷。慢性胃炎もきっとそんなふうにして出来たんだ。ひたすらばかばかしいが、これをなかったことにすると自分という存在が消失することに気づく。笑える。この気持ちまるごと大事にして生きていくよと小さく誓う。
本屋は多種多様な優しさに溢れていて凄かった。そのひとつも受け取れないというのはやはり自分自身が凝り固まっているところがあるということ。すぐに他人の物語に吸収されそうになる。…って似たようなフレーズがB'zの曲にあったあった。濁流BOYだ。まさに。飲み込まれちゃいけない。まさに。濁流の、BOY。です。
 
そんなこんなで今日はぼうっとしてれば瞬く間に時間が経つ日だったので、これを利用してパンを捏ねた。いつもなら発酵の待ち時間が退屈だったけど今日は本当にあっというま。ついでにひじきの戻し時間も一瞬。今度からこんな日にはパンを焼けばいいのかもなあ。
 
花を描きまくったら花を愛でる人になれるんじゃないかと思っていたけども、描きまくっても(まだ足りないのかもしれないが)根本は変わった気がしない。が、絵を観てくれる方からは花が好きな人だと思ったと言われることが増えた。名前もおぼえていないけれど描いた花はみんな好きで、でも花屋に並ぶ花や野に咲く花を見て好きだなんて思わない。むしろ虫と同じように恐怖心がある。これは花好きと呼べるのか。呼べない気がする。 実家には大好きな猫がいるし、外で転がってる猫を可愛いとは思うが、実家にいる(・いた)猫は猫じゃなくても大好きだったはずで、だから自分のことを猫好きだと思うと違和感があって、それに近い。
「花を愛でる人」とは誰なのか。愛が多様であるならば愛で方だって多様であるはずで、じゃあわたしだってわたしのやり方で花を愛でられているのだから、、花好きだと括れはしないけれど、真っ当に達成しているわけで。料理だって生活だってなんだって、自分のやり方で、自分に嘘をつかずに重ねていけばいいだけなのだ。

花 ✤ ありがとうございました @リーダン・ディート


 
 ✤

リーダン・ディートさんでの個展「花」は、本日で終了いたしました。
といっても、自分は東京にいて、新しい花を描いていたので「終わった」という実感はありません。

在廊の日は、短かったけど濃密な時間を過ごせました。未だにその思い出に励まされながら元気に生きています。夏に曲線さんで花の展示をしたときには花瓶の水面について聞いてくださる方が多かったのですが、今回は背景の青についてが多く印象的でした。「なぜ青なんですか」と問われて、たしかになぜだろうと思いつつ、再び花を描き始めると自然と青に落ちつくのが不思議です。

生身の自分が広島に滞在できたのは一瞬でしたが、絵は会期中ずっといられて羨ましかったです。もっともみじ饅頭とかレモンとか買えばよかったな。とはいえまた行きたい場所ができて本当に嬉しいです。絵にも感謝だ。嬉しい出会いや楽しい時間をありがとうございました。
まだまだ花を描きます。
 
市村柚芽
 
✸「展覧会の記録」はこちら→

海苔みかん

 
 
本日は出来合のり弁でした。
 
昨日は新宿のタワレコでB'zの新しいアルバムを買って、今日は自転車を使わず彷徨い歩いた。もちろん『FYOP』(ふぃよっぷ…?)聴くためです。これまでの人生では流行っているミュージシャンを好きになったことはなくて(多分)、たいていの楽曲はもう新品では買えず、Youtubeで聴けちゃうし、ブックオフにあるし、なんなら図書館にもあるしで、発売日にCDショップに駆け込んでお金握りしめて定価で買ったのなんかはじめてで、滾るものがあった。
 
『FYOP』は最高で、とくに「片翼の風景」が大最高だったけど(号泣しました)、今日のアタマは何しててもボケーッとしていて、ピラティスで山になったりしているときにも気を抜いたら寝そうだった。こんなときには料理に限ると思って台所に立ったが、容量の悪さが6倍くらいになっていて、ずっと支離滅裂・意味不明な動きをしていて、そのストレスで血を吐きそうになった。何回にんじんの千切りをしたか分からん。にんじんの乱切りを煮るところで千切りを投下してしまってぐつぐつの鍋の中から千切りをかき集める謎の時間もあった。気づいたら3時間経ってた。が、完成すれば裏側のカオスは嘘みたいに、皿に収まっていた。
 
少し前にテレビでなんにでも海苔を巻く人たちが特集されているのを見た。みかんに海苔巻いて「おいしい」と言っていて、嘘だろと思いながらやってみたらえらい美味しく、その日からみかん食べるときには自分も海苔を巻くようになった。衝撃的においしいと感じたけど共感は得られず、これは普遍的なおいしさじゃないんだということに驚いた。それもまた衝撃だった。

満ちれば溢れる

 



どうにもならなそうなことを本当にどうにもならないと認めるのは悔しいから、わたしは認めないほうにしようと思う。今のところ。でも、どうにもならなそうなことでぶち当たる現実は、思った以上に残酷そうだった。直視すると号泣しそうになるくらいに。
歳なのか、最近、悲しみは胃もたれする。こんなもので胃を壊すのは悔しい。
 
気づいていなかった未読のメールの山の中に、いくつか、優しいメッセージがあった。満ちていたのが溢れたような優しさの一部だった。実際はわからないけれど、そうだとしたら、それはなんて幸せな世界だろう、なんてすばらしい世の中だろうと思う。
 
自分自身をストイックに大事にする。人に優しくなんて思わない。溢れるくらい満ちるようにがんばる。健全に。健康に。

らくがき漫画集⑦

 




 


 
2025年5月〜11月はじめまでのらくがき漫画です。

展覧会参加のおしらせ /『21冊の展覧会』



日ごろお世話になっております、東京・えほんやるすばんばんするかいしゃさんにて開催中の『21冊の展覧会』に参加させていただいています。
これまでにるすばんさんが作ってきた本(21冊)を並べ、それぞれの作家さんの原画も展示するとのことです。

私は、2023年に書籍『花』を出版していただきました。
刊行して2年とすこし経ちました。ページをめくると、日々の断片の気配を感じます。形のあるものないもの、様々なことはだいたいはぐれてしまったけれど、感傷的にならずに平らな心で絵や文字を追うことができるのが、大きな安心です。そんな本を共に作ってくださったことを、心から感謝しています。


『21冊の展覧会』
会期|2025年11月8日(土)~12月8日(月)
定休|火・水
時間|14:00-20:00
-
住所|1660003 東京都杉並区高円寺南3-44-18
最寄|JR高円寺駅6分 / メトロ新高円寺駅12分
電話|03-5378-2204


店主荒木さんの言葉や、詳細はこちらをご覧ください。

たのしいおしらせ / upendo 11月号

 

長崎は大村にあります「upendo」というお店に、花の絵を1枚かざっていただいています。
前回から2ヶ月だったので、あたらしい絵をお送りしました。
今月はぶどう色のチューリップです🍇
お越しの際は、絵もちらりと見ていただけたらうれしいです。


 
upendo
長崎県大村市田下町406
*営業日・営業時間はSNSをチェックしてください

企画:熊谷麻那さん

くらやみを見つめて

 
 
電車に乗っているとき、時々息苦しくなる。数日前にも、少しだけ息苦しくなった。何回もそんな感じになっていたから動揺はしなかった。息苦しくなっている時の自分のことを観察してみようと思った。それで、視野がとても狭まっていることに気づいた。

広島で展示がはじまって、会いにきてくれた人たちや、絵を見にきてくれた人たち、お話した人たち、関わってくださっている人たちは、もう全員がすばらしい方々だった。うまくやれるだろうかと不安で泣きそうになりながら新幹線に乗ったときの気持ちなんかはるか遠くに、帰路はあたたかさや幸福感に包まれるようだった。広島に限った話ではなく、思い返せばいつだってだいたいそんな感じで。
 
電車の中にはたくさんの人がいて、みんながみんな、すばらしいと思うような人たちであるとは考えないが、(自分の皿の、深度が足りないと思う)ただ、もしかしたら私が脅威だと感じているものは、視野の外の暗黒なのかもしれない。
 
絵に没頭しているとき、同じように視野が極端に狭くなっていることに気づいた。こうなったとき、だいたいいつも上手くいかなかったように思う。水で色をぼかそうとすると、境界に余計な色が入り、ムラになる。これは水が淀んでいるのと、筆の根本に絵の具が残っているのと、筆を拭うティッシュが汚れているのが原因だ。原因が分かっているのに、解決しようとしない。部屋は真っ暗なのに、真っ暗なことにも夕方のチャイムが鳴るまで気づけなかった。今日は花を前に置いて描いたが、花を見た時間は数分だった。焦りと慢心だ。

合間


広島でレモンを3つ買ったから、ウィークエンドシトロンをすごく作りたかった。昨日の深夜にレシピを調べ、見比べ、よく分からないところを調べ、AIにも頼ってみたが信用できずで、計算は電卓と筆算。ノートまでとった。3時半になった。テスト勉強のようだった。今朝は早起きしてはりきって臨んだ。
分離には備えていたつもりだった。なのに、案の定分離した。卵もバターも常温に戻していたつもりだった。なんなら湯煎もした。でも、うちに温度計はなかった…。頭がくもってくる。いつも、肝心な部分が抜けている。日常では役に立たないところばかり勉強している。足りない気がして泡立てすぎたのかもしれない。こうしてくださいと書いてある部分を過剰にこうする癖がある。今日の躓きは自分の人生を眺めているようだった。
ひどい分離ではなかったのでそのまま続行して焼いたらふっくらきれいに焼き上がった。ガッツポーズをした。どれだけ対策しても最後には投げやりになる。たしかにいつもこんな感じかなあ。
 
夜に散歩。仕事帰りのサラリーマンに混じって歩く。
見上げたら月が大きいし光りすぎてるしで「どうしたんだろう」と思った。言葉通りに思った。そういえば昨日友達が、展覧会で絵を見て同じことを言っていたなと思い出した。それってどんな感想なのよと思ったけれど一晩たって腑に落ちた。