今朝、久しぶりに猫の夢を見た。私は実家にいて、押し入れの中から猫が出てきた。もう一匹の猫は存在を当たり前のように受け入れていて、自分や家族は動揺していた。夢の中でもちゃんとすでに亡くなっていた。母は頭がおかしくなったのかなと言いながら喜んで泣いていて、私は猫の後ろ足がびっこひてるのに気づいて心配になった。
生きていてもいなくなってもいつもたくさんの心配をくれるなあと久しぶりの気持ちになる。そうだった。起きたときには寂しいとか会えて嬉しいとかよりも、頭の中で再現できるくらいおぼえていられてよかったと思った。その後すぐに、そんなふうに思うのはよくないからやめようと、執着の種を払った。せっかく体から解放されたのだから、お互い自由にやった方がいいと思う。
今日はずっと続いている身体の不調と向き合うため、習い事の見学をした。緊張のあまりキャンセルまで検討したけれど、耳の中でB'zに応援してもらいながら、なんとか。おばさま方が一斉にオットセイみたいになったり、山みたいになったり。スムーズな方、ぎこちない方さまざまに向き合っている。みんな立派だなあきれいだなあと思った。終わったころには話しかけてくれた方もいて、ここなら通えるかなあとうれしくなった。ウルトラソウルウルトラソウルありがとう。
自分の年齢では少し早いのかもしれないが、若さ故に成り立っていたことはたくさんあったと感じる。身体のことも、制作のことも、認識の歪みも。
辛い日々があったとして、それを振り返って語るとき、本当はたくさんの感情が内包されているのに、それらを切り捨ててただ辛かったと言ってしまいがちだと思う、自分は。現実の毎日というのは、基本的に辛くても、その日その日でなんらかの生きる糧を見出してがんばっていたはずだった。少し前、ラジオを聞いていてそんなことを思った。だってそうでないと今日まで生きてこれてないはずだからだ。認識はどこから歪むのだろうと考えていたけれど、自分の場合は後から不必要に・不器用に・雑に形容を試みる際に切り捨てている(歪めている)ことが多いのかもしれない。立ち直れなくなったり八方塞がりになるのはその積み重ねでもあるのか。
そんなに興味がないからわざわざ眺めないけど、ここ数日、外を歩いていて月がまるくてびっくりする。あの裏側にはたくさんのものが隠れているんだ。そう思えるくらいに視界がひらけた。一歩ずつ大人になる。しっかり手放して、本当に忘れてはいけないことは何回でも思い出して。思い出すためにはパワーがいるから、引っこ抜くための。ちゃんと向き合わなければと思う。