はじまりの言葉

 
腹を抱えておもしろがって見ていたお笑いが急に笑えなくなったり、また急におもしろくてたまらなくなったり、大好きだった音楽が聴けなくなって、避けていた音楽を毎日聴くようになったり…、 そんなことの繰り返し。
この一生が、途方もないほど大きい何かにとっての一瞬であったとしても..なんだっていい。だからなんだというのか。感傷にひたる暇などない。
月のはるか上で連絡が途絶えたトム少佐は、曲が終わっても、宇宙のどこかで、生きている。
『And there's nothing I can do.』
これははじまりの言葉だ!
ずっとそう思ってたいよ。

PRIDE

 
 

やらなきゃいけないことをしていたのに、気づいたら今日も音楽に夢中になってた。最近は絵はまったく描かず、勉強をしたり、音楽を聴いたりの毎日を送っています。そんな日々を送っていて実感したこと…この時間はすっごく、すっごく大事な時間だということ!

チャゲアスの『PRIDE』を聴いていて、これは尊厳の歌でもあるんじゃないかとおもった。
プライド…prideと尊厳...dignity、は微妙に異なる意味を持っているけれど…この曲で歌われるプライドという言葉には、わたしがおもう「尊厳」という言葉も含まれているように思えた。 

戦争のことを考えるとき、「尊厳」というものをいつもより強めに意識しなければならないように思う。わたしが戦争について目をそらしてしまいそうになったのは、自分の中で考える「尊厳」の定義が曖昧であった…というか、尊厳というものは誰でも持って<いる>もの、ということを理解できていなかったからかもしれない。
尊厳とは、全ての人が持つもので、手放してはならないもの。例外なく、すべての人間に対してもそう思う。それに、そう思わなければならないものでもある。
そもそも尊厳がなくても社会は成立するんだろうか。どんな状態、状況を成立した社会と見なすかは人それぞれなんだろうが、私は尊厳がない社会など成立しないんじゃないのかと思う。…なにがなんでもとにかく私が「戦争はあってはならないもの」と断言できる理由の中に「尊厳」は大きく関わっている。そして、それを主張する方法も各々であっていいはずだ、とも心から思う。どんな場面・相手においても、何かをするとき、それが尊厳を踏みにじる行為になっていないか考えることは今すごく重要なことなんではないのか。
尊厳ってなんだったっけ、と考えているうちに、戦争に抗うってどういうことなのか…の、自分なりの答えの一つが見えてきた。急がなければいけないけど焦っちゃだめだ。焦ると何も出来なくなる。近道しない。
 
尊厳って、自己肯定や自己否定や劣等意識よりもずっと下に、絶対的に存在するもののはずで。たとえ今暮らしている家の窓から見える景色が火の海でなくとも…青い木がやさしく揺れ、平和的でうつくしい景色が見えているとしても、手放してはいけないもの。
死んでも守らねばならないとすら思えてくるのは…それは今、奪われそうな気がするからかもしれない。この事実は、悲しい、悔しい。
とにかくいかなる場合でも…自分の尊厳を自分で奪う、ことも含め、尊厳を奪われるようなことがあってはならない、絶対にだめ。心底当たり前なことのような気もするが、すっごく大事なことのような気もするので、ここに書き留めておく。
わたしは、尊厳というものが、人があたりまえに持っていて<いい>ものだと気づけるまで、26年かかった。多分、遅いのでしょうけど…今気づけてよかったと思う。
 
それにしても本当に世の中にはすごい音楽がいっぱいあって…すごい!!『PRIDE』が尊厳についての歌じゃなくたって(そういう意図でつくられた楽曲じゃなくたって)、そんなことはどうだっていいのだ。人間って本当に、たいしたものだなあ。

個展「路標」

 
 
こんばんは。
11月の個展のおしらせです。
穏やかな空気の流れるALDOさんに、机の上に瓶とくだものなどを並べた風景の絵がならびます。
ALDOさんのおいしいのみものやお菓子とともに、お楽しみいただけたら幸いです。
額は古道具背骨さんにお願いしています。
私自身も、どんな空間ができるのかとても楽しみです。

市村柚芽



ここに壁はなかった
風が吹いたら 散っていく
わたしがみていたものは
なつかしい時間 遠い風景
手放すために 名前をつける




「路標」

会期:2024年11月2日(土)-11月23日(土)
おやすみ:月・火・水
時間:11時-17時
場所:ALDO
(東京都練馬区桜台5-11-22 楓の樹2号室)
*営業日は変動することがあるため、SNSでご確認ください。

DMデザイン:浦川彰太さん

鳴り止まない


 
最近はB'zばかり聴いてすごしています、本当に、本当に、本当にかっこいいんですね…。
これまでメジャーな音楽を避けていて全然聴いたことなく、こんなにすごい人間がいたなんて知りませんでした。今までの鬱屈とした時間は、この曲を聴くためにあったんでないかとすら思えてきます。
B'zの歌詞は文学じゃなく…だから、「歌詞の○×がすばらしいから好き」、というわけでは断じてないのですが、(その音楽、その、完成されすぎた曲そのもの、がすばらしすぎて、大好きすぎるのです)しかし言葉だけでも感動せざるを得ない箇所がいくつもあり、その点では『恋心(KOI-GOKORO)』にはとんでもなく震えました。この感動を忘れたくなくて、歌詞を引用してノートにぎっしり感動ポイントを書いたりしました。
最近また落ち込んでいた期間があり(うんざり)べつのきっかけと重なってアドラー心理学について勉強しはじめたのですが(命拾いしました)、その勉強ノートに、地続きのこととして書き綴りました。アドラー心理学とB'zはすごく近い部分があるように思います。
…それにしても『RUN』はヤバすぎて、まだ歌詞をちゃんと読めていませんが…読むと本当に泣いちゃいそうで、でも、こことか
 
荒野を走れ どこまでも 冗談を飛ばしながらも
歌えるだけ歌おう 見るもの全部
なかなかないよ どの瞬間も
 
(号泣)
こことか
 
これは一生の何分の一なのかなんて
よくできた腕時計で計るもんじゃない
 
約束なんかはしちゃいないよ 希望だけ立ち上ぼる
だからそれに向かって
 
 (嗚咽)
 こことか
 
人間なんて誰だって とてもふつうで
出会いはどれだって特別だろう

(絶句)
気づいたらもう全部引用してしまいそうになります。やっぱりちゃんと読めません。歌詞があまり聴き取れないくらいの環境でBGMとして聴くくらいでないと、今のわたしでは泣き崩れてしまいそうです。これを涙を誘いながら歌うんでもなくて、もう、疾走感の中でワーッと歌っているところが本当に最高です。ダブルで来ます。
 
B'zの他にチャゲアスやら布袋やら(はじめて聴く音楽なんです!)を聴き漁っていますが、感情が爆発して笑っちゃうくらいすごい曲が、鬼のように…聴ききれないほどあります、引きました。こんなすごい人がいるのなら、わたしがやらなければならないことなど、本当に一つもないと思いました。それは心の底からよろこばしい発見で、これまでも何度か思ってきてはやっぱりそんなことないんじゃないかと繰り返してきましたが、今回でそれはようやく区切りが付いた気がします。目の当たりにして、私は私がやりたいことだけをやればいいのだと完全に理解しました。もう揺るがないと思う。
 
アドラー心理学には「自己受容」というキーワードが出てくるのですが、その言葉にすごくしっくりきています。自己肯定ではなく「自己受容」。あっさりしているが、私には新しい視点でした。私の頭の引き出しの中には「自分を肯定するためには何かを否定せねばならない」という理屈しか持ち合わせていなかったのですが、その観点はそもそも自分がバトルロワイヤル上にいるという、<そもそも>歪んだ認知から生まれていたものなのだと気づかされ…、ここはバトルロワイヤルではないと捉えることができれば、たしかに肯定も否定もなく存在できるのかと、呆気なく腑に落ちました。「居場所」のこととかも同じように。私は、全ての物は平等に無価値であり、同様に、価値あるものであると思いたかった。思えるようになって、すごく嬉しいです。
B'zの曲の多くはその基盤のようなものが頑強で、だから私は感動するんだろうと思う。
今朝、比較的新しい曲らしい『イチブトゼンブ』をおずおずと聴いてみたところ(だいぶ古い曲ばかり聴いていたのでちょっと怖かったです)、最高で泣いてしまいました。

とにかくここ数日はアドラー心理学とB'zの感動が凄まじく、そろそろ吐き出しておかないと身体が壊れそうだったのでここに。チャゲアスとか布袋とかデヴィットボウイに対しての感動ポイントはちょっと違うところにあって、ここも破裂しそうになったら書いてしまうかもしれません、鬱陶しかったらすみません。しかしめきめき元気です。本当にうれしい。ロックンロールって本当に鳴り止まなかったのですね。よかった…。

お仕事のおしらせ / 『子どもが見える村』

 

関わらせていただいたお仕事はちゃんとご紹介しようと思い立ち、再びの投稿です。
再放送すみません。
 
たくさんの生き方や働き方を紹介している求人サイト 日本仕事百貨さんのコラムで、イラストをいくつか描かせてもらいました。
高知県・馬路村のコラム『子どもが見える村』のための絵です。
馬路村はゆずが有名らしく、ゆずをたくさん描かせてもらえてたのしかったです。
デザインは浦川彰太さん。いつもらくがきのような絵をスタイリッシュに使ってくださりうれしいです。
この記事のほかにも興味深い記事がたくさんあるので、ぜひ見てみてください。

お仕事のおしらせ / 『JAXA’s』097号


 

大きな月と、紙面いっぱいの宇宙を描いてほしい というお仕事をいただきました。
これはJAXAの機関紙『JAXA’s』097号のなかの「HUMANITY ON THE MOON」という特集ページのための月です。この特集の文章は熊谷麻那さんです。

人類が月に「住む」ということについて、こんなに研究が進んでいるなんて知らなかった。
夕方、洗濯物を取り込んだとき見えた月はとても遠く・とてもちいさく見え、人の欲求や好奇心はどこまで届くのだろうとはてしない気持ちになった。
ここから見る月はきれいだ。意味なく描きたくなる。
いつかもしも人類が月に移住できたとしたら、かつてのわたしたちがまるで物語の一部のように月を想って描いた日のように、地球のことを見る日も来るのだろうか。

https://fanfun.jaxa.jp/jaxas/no097/

たのしいおしごとをありがとうございました。

いろいろおしらせ

ご縁に感謝!な、いろいろのおしらせです

 
 
①日本仕事百貨さんのおしごと
高知県/馬路村についての記事で、いくつかのイラストをつかっていただいています。
デザインは浦川さん。わたしのらくがきをスタイリッシュにまとめてくださいました!
うまれてから今までずっと東京で暮らして、電車やら人ごみやらが年々苦手になってきて、そろそろくたばりそうだと嘆いていた矢先にいただいたこのお仕事。イラストを描くために馬路村のことを調べていたら、こういう生き方ができる場所もあるんだなあ...と涙ぐみました。記事もすごくおもしろく、馬路村にいってみたくなりました。すずなりのゆずには親近感がわきます。ほかの記事もおもしろいので、ぜひ読んでみてください。ご縁に感謝です。


②雑誌にのせてくださいました
お声がけいただき、1ページ分、絵などのせてくださっています。
こういう掲載情報を紹介するものなのかわからないのですが、ややこしそうな人に声かけていただいた編集者さんのお気持ちがとてもうれしかったのでご紹介です。感謝です。。
すごい人ばっかりのなかに自分がいて変な気持ちになりました。
 

③グループ展(?)のおしらせ
本や古物など、物販中心の展示..イベント?に参加させていただいています。東京は曳舟にありますgallery TOWEDさんにて。わたしはつくった冊子たち(WASURETA〜Ⅲは多分はつおひろめです) と絵を2点(新作ではありません)もっていっております。わたしの手持ちの古物は手放す気になれず値段もつけれずなにも持っていていませんが参加者の方々がいろいろ持ち寄っていておもしろそうでした。10/12-11/3、土日祝のみ営業。
TOWEDさんは最初に描いた花の絵をかざらせていただいた場所でもあって、時の流れを感じます。もっていった絵のひとつはそういえば最初に描いた花と同じピンクのカーネーションでした。
(*今回はスタンプラリーやってません!ごめんなさい。)

WASURETA WASUREMONOⅢ

 

2022年から、『WASURETA WASUREMONO』(わすれた わすれもの)というややこしいタイトルのシリーズの小冊子をつくってきました。その第3弾が、先日完成しました。ちょうど2年ぶりです。グレーの紙に、ことばと絵を青いインクで印刷して、束ねました。
 
第1弾は、いつかの帰路のスケッチを、黄色い紙に真っ黒いインクで印刷して束ねたもの
第2弾は、いつか見た夢をおもいだして「FLY ME TO THE MOON」という漫画としてかきおこしたもの ..わたしのことを好きだといってくれるあなたと、真夜中にどこまでも散歩するものがたり
第3弾は、第2弾の続編のようなものになりました。 ..夢から醒めてひとりのわたしが、おもいだせないあなたに向けて綴った手紙の断片
 
どこかでみかけたらお手にとっていただけたら幸いです
(取り扱ってくださるお店がありましたらご連絡ください)
後日ウェブショップにも載せる予定です
 



 



 

ひさしぶりに絵を描いてみたけれど、失敗した
けっこう絵の具を使ったし、水も淀んでいた
今のわたしには、よくない方向に向いている絵を
力づくで直していくのができなくて
だからそっと棄てた
でもあしたまた描いてみようと思った
 
人間もそうやって白紙にできたらいいのにと思う
白い絵の具で紙を塗りつぶして白紙になったつもりになる
たまにそれじゃやりすごせないって思う
 
さっきキャベツを塩で揉んで五分
絞っても絞っても水分が出た
すごく変だけど、それはちょっと救いだった

花の本をまた開いてみるコーナー⑦(最終回)

 

展示はあしたで最終日です。今日も開きます。
『花の本をまた開いてみるコーナー⑦(最終回)』
第6弾はこちら。

空想の世界から現実へ帰還して、また目の前にある花を見ながら描いてみたとき、ほんものの花はわたしの為に咲いていないというところに、とても安心させられました。わたしが何をしてもしなくても、つぼみだった花は少しずつ咲き、枯れ、捨てなければ朽ちていく。何を思ったり祈っても傍観者でしかいられないことはすごく正しい姿のように見え、当時はそれに妙に感動してしまいました(はたから見たら変な人でしかありません)。枯れることを恐れずにゆっくり描くことができたとき、焦燥感がなくなって視界がクリアになりました。

そんな境地に立てたすぐあとに、大好きな猫とのお別れの日が訪れました。子どもの頃から「猫がいなくなったらわたしも死んでしまう!」とばかばかしいことを本気で思って生きてきたのですが、猫がいなくなっても私の心臓は変わらず元気に動きつづけていて、笑えてきます。花の絵を描いていたときに感じたことが現実となってあらわれたみたいで不思議でした。こうして見返すと、またそう思い直されます。

本に載っている花の絵はそんなときに描いてきた絵たちで終わります。
刊行して1年、あいかわらず私は変化のさなかにいるようです。花の絵を描いたり描かなかったりしつつ、変わらず変わりながら生きています。
まだしばらく花の絵を描きそうなので、どこかで見かけた際は「まだやってんのか」とでも思っていただけたら幸いです。そしてこのコーナーでは私情をつらつらと述べてしまいましたが、この本を読もうとするとき、私が花のことを身勝手にとらえたみたいに、身勝手に読んでくれたら嬉しいです。嬉しいというか、それが楽しいなと思います。

ひとまずこのコーナーは最終回です。
またそのときがきたら、この本を開こうと思います。
頼りない文章をここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

花の本をまた開いてみるコーナー⑥

 
 
スケジュール管理能力がすごくないと、忙しいことに気づかずに「暇だ暇だ」と言えるわけですね。腑に落ちました。焦ってきて目が冴えたので、久しぶりに花の本を開きます。第6弾。
第5弾はこちら。

今回の文章は、本を読むというよりも、本をきっかけに記憶を呼び起こして考察する、というような内容になってしまいました。
たくさん削って完成させたものにゴミを投げつけるみたいな行為な気がしてきましたが、この本に載ってる絵とか文を描いた記憶がおぼろげにあるだけの人の戯れ言と思って、軽く読んでいただけたら幸いです。
 
画像の絵を描いていた時期は、花の絵のほかに空想の窓辺の絵を描いていました。現実にある花や静物ばかりを描いていたから、その反動から空想の世界に惹かれていったという経緯だった気がします。
空想の世界ではすべてがわたしのために存在していて、花はわたしのために咲いてくれ、窓からはわたしが見たい空がひろがっています。
ずっと怯えていますが、とくにそのころは死ぬことが怖くてたまらなく、生きるも死ぬもないような空間に引きこもっていたいと願ったのが、そのようなかたちで絵になってあらわれたのだなと分析しています。2022年の夏〜12月頃まで、そんなテーマの絵を描いていました。
この花の絵には、あの空想の窓辺の空気が漂っているように見えます。美しくて気に入っている絵だけど、どんな花を見ながら描いたのか全然すこしも思い出せません。ぽんぽんした白い丸がなんの植物なのか、そしてどこで入手したのか…。ミステリーです。でもなんらかの花を見ながら描いていたことは思い出せるから、観察はそのときなりにしていたはずです。

2022年12月ごろのブログにこんな一文がありました。
「私から嘘を全部取っ払ったら泥だけが残る。私から発せられる綺麗なものは所詮すべて綺麗ごとだ。悔しい。」
しばらく浸っていたらそんなふうに思えてきて、それで空想の窓辺から旅立って(ちゃんとお別れして)、また現実の花の絵を描き始めたのでした。

電気羊

困惑しているとき、八方塞がりになった気がする。そこから逃げる手段は、上でも下でも右でも左でもなくて、自分が消えるほかないように思う。あるいは、消えたようにみせかけて、全力ダッシュするとか、手品のように。
わるい人は、今のところ周囲にいない。いい人ばかりが来てくれる。ありがたいこと。ありがたいことなのに、ありがたいと思えないほど追いつめられるときがある。
わたしから見える景色は、わたしによって様々な色合いに変化する。わたしの分別はとても曖昧だ。絵だったらおもしろい、現実だとややこしい。このおもしろさをおもしろいと言ってくれるひとに、現実のこれも受け入れられますかと聞いてみたい、脳みそから直接。ややこしさをおしつけ、むりやりにでも呑み込んでもらわねば生きていけない世界、ではないとあなたは言えますか。しぶとさと図々しさは、言わないだけで必須なんじゃないでしょうか。つよい人はすごいとおもう。立派だとおもう。でも、つよくなければ生きていけないのは、しんどいなとおもう。
いろいろなことを自分のままでとにかく勝手に想像(あるいは妄想)していると、見境なく敵、あるいは加害対象なんでないかという疑いが、じりじりと寄ってくる。ただの自意識の肥大化。事実は、<みんないい人>。みんなそれぞれが、じつは必死に生きている。みんなあたふたして、みんなそれぞれゼエハアしながら、死にそうになりながらぎりぎりで生きている。こともある。ふとしたときにそれを目の当たりにして、力が抜ける。実際は味方と敵でもなく加害と被害の関係でもない。だいたいの場合は。
全力ダッシュで切り抜けた後は、とにかく必死で、またゆるしてくれるところを探さねばいけないわけだけど(どうしてゆるしてもらいたいのだろうと疑問をいだきながら)、もしもダッシュのあいだに、または治癒のあいだに力つきてしまったら、それはなにのなんになるんだろう。せめて自己責任になったらいいと思うけれど自己責任と判断する奴のことはむかつくな、とか。
「わたし」が横にいたとして、いまここにいるわたしができることは、『おちつけ、おちつけ』と無責任に言うほかないような。こういうとき、格言なんてしらんとおもう。いちばん、うるせー!て思ってしまうのだ。おいしいプリンとか渡したらいいのか。でもべつに、いらないなあ。

名前

 

 

今月に描いた3つの絵。
スケッチのように描いていたけれど、スケッチと呼ぶのがしっくりこなくなってきた。
とりあえず、絵、と呼ぶことにする。描いたこれらの絵を眺めていたら、名前をつけてみたいと思った。
 
泣いているひとをみて泣けるか、という話を友人としていたとき、友人は「絶対に泣かない」 と言った。「ゆめさんはたぶん泣いちゃう」とも言われた。わたしはたしかに、泣いているひとをみて涙が出てきてしまう。身勝手だと感じるから、それについて後ろめたさがある。実際の日常生活では人の気持ちがわからないということで、他者を苦しめたり自分も苦しんだりしている。日ごろこんなにわからないひとが、なぜそんな急に相手の気持ちをわかったようになれるのか。願望の裏返しか。感情の共感性とはどういう経路で発生するものなのだろう。
友人は、(友人自身が)泣いているひとをみて泣くことについて「嘘でしょそんなの」と思うから、絶対に泣かないという。泣いても泣かなくても、どちらがよい作用を及ぼすかは人によるものだが、そのような場面に出くわしたとき、人によった行為をできないから、嫌だなと思う、という。彼女の、「絶対に泣かない」ところに、わたしはとても助けられている。いやだなと思わなくていいのにとわたしは思うけれど、彼女はそうなのだなあ。

瓶は、実体がないわけでない。透明だけれど、質量がある。そこにちゃんと在ることは、おちる影や、周囲の色の反射や、ふれることで、すぐに分かる。
同じ要因から、瓶は環境によって特に印象が変わる。表情が変わったみたいにも見える。身勝手な意識から、それが生きているように思えてくる。ふしぎで、怪奇な現象だ。
わたしがわたしから出ることは、できないのに。

花の本をまた開いてみるコーナー⑤

 


 
今日もだいぶ眠いですが開いてみます。
 
今日は文字も読めました。
言葉はミスリードのように思えました。
絵は言葉よりはホントな感じがします。

画像はべつの日に、同じ種の花を描いた絵です。(時系列順です)
これらはたぶん、デルフィニウムという名前をもつ花です。何度も描いているのでおぼえられました。こうして並べると、同じ種と思えないくらい花の形や葉の付き方とかにばらつきがあります。日記を読むとそのときの自分なりに観察していたようだけど、いったい何を見ていたんでしょうか。 
 
「観察は大事」と、絵を教えてくれる人たちにはよく指導されていた記憶があります。
(たしかに観察がすごい絵に感動することは多いけれど、それはその絵の内側に感動しているんであって、観察がすごいから感動しているわけでない。じゃあ自分が観察を強要されねばいけない理由はなんなのか)…とクソガキは疑問を持ちながら絵を描いていましたが、こうして繰り返し花を描いて(このコーナーの③で述べましたが、)はじめて観察ということの大事さに気づきました。
うまくできていなくても、結局なんとなく固執してしまう<観察する>という行為の底には、誰かからの指導が敷かれているのかもしれません。というか、自分で敷いていたのですね。観察したからといって許されることなどなんにもないのに、安心の材料としてそれを駆使しているんだとも思えてきました。

つきたくてついたウソは悪だけど、そんなつもりじゃないウソは悪ではない、と無自覚に分類している自分の頭にも興味があります。鈍いだけかもしれないですが。
こうして絵を並べてみると全部ウソみたいに思えるのが、本当に滑稽というか、愛らしいです。まだまだずっと花を描きたいです。

花の本をまた開いてみるコーナー④

 


夏バテなのか台風のせいなのか、いつもの五倍くらいぼんやりしています。
今日は本当の本当にぼんやりで、まったく読む気になりません。
無でめくっていきます。第3弾はこちら。

このコーナーの前回や前々回なんかは描いたときのことを思い出したりしていましたが、超のつくぼんやりのときは何か思い出そうと思っても思い出せないものですね。
日記は目がしぱしぱするから飛ばします。描かれた花々は自分とはまったく関係ない気がしてきます。

この本の絵は、紙の特性上、原画よりもグレイッシュに出力されました。印刷の立ち会いに伺ったとき、印刷したてはすごく発色がよくて感激したのに、持ち帰って改めて見たら沈んでたということがありました。
人間が遠のき、発色とともに鮮度も洗い流されたんですね。
当時は若干気がかりだったのですが、今はこの色調の大切さを知っています。

がんばらないと読めない日記や散文は、がんばれないので読まなくていいやと読み飛ばします。そもそも読ませる気がないような文字です。今更、こんなタイミングで、デザイナーさんのすごみを感じました。読まなくていいんだこれ!
淡々とめくっていたら最後のページまで到達しました。心が全然動かなくて、すごく嬉しいです(変な感性でしょうか)。
古いアニメーションみたいにおもしろいです。
もしこの本を持っている方はぜひ、ぼんやりの日にも開いてみてください。

花の本をまた開いてみるコーナー③

 

今日も本の続きを読んでいきます。第2弾はこちら。

このページの絵は、とても苦労しました。
観察を怠ってもフィーリングや色彩やタッチでごまかせば勝手に「絵」になってくれるから、それに甘んじて / また、枯れたら描けなくなる、という不安感から、すごいペースで絵を描いていました。が、この花を以前と同じ心情で仕上げようとすると、自惚れで甘ったれでも、さすがに見て見ぬ振りはできないほどに紙上にウソがあふれます。観察が必要でした。

観察。
これを描いているとき、目的は絵を描きあげることじゃないのかもしれないと気づいたんでした。そして、枯れるのを恐れることをやめたいと願いました。誰のため?と聞かれたら、花のため!..とか当時は思っていた記憶があります。

これまでの絵は花に理想を投影してそれを描いていただけだったんじゃないかと、観察した絵を描き終えると、改めて過去の自分への怒りとか虚無感とかがわいてきました。今、絵を見返しても全然そんな感情は沸きません。
怒濤の感情、怒濤の花たち、月日という波にずいぶん洗い流されて、もうだいぶ残ってないです。清々しさに涙が出そうになります。

花の本をまた開いてみるコーナー②


 
今日も読みつづけてみます。第一弾はこちら。

ページをめくると、少し景色が変わった実家の周りを歩いているときみたいな、望郷がありました。完成された絵というより、その筆跡をたどるように見てしまいます。前回ご紹介した①のページと同様、すごく厚塗りですが、何枚か花を描いて調子が乗ってきて、わりかし塗り直さずに描けるようになってきた段階だった気がします。
私は恋とか胸キュンとかよくわからないまま生きていたのですが(欠けた感性に対して少しのコンプレックス的なものも抱えつつ)、花を見てどきっとする感覚があり、これはもしかしたら恋なんではないか?と妄想したりもしていました。
頻繁に花屋に通い、絵は花が枯れる前に描き終えます。とにかくたくさん描きたくて。描きおわった花は大きい花瓶に乱雑に放り込み、茶色く乾涸びたら捨てました。こんな感じだったので、「花を愛でる」なんて言葉からはほど遠い扱いをしてきたというのに、当時の自分は世間で言う「花好き」みたいな人になれたんでないかと勘違いもしていました。恐怖です。
思い出されることは恥ずかしいことばかりです。絵の中の花はぴかぴかしていて、眩しいです。

花の本をまた開いてみるコーナー①


 

イトマイさんで花の絵の展示がはじまりました。
花の本は、これまで描いた花の絵を時系列にならべ、合間合間に日記や空想のお話を織り交ぜた本です。
刊行から約1年経ちました。なんとなく記念して、会期中、自分も久しぶりに花の本を開いてみようという企画を、ゆるくやってみます。今回は第1回。

絵自体はネットにアップしたりするためによく見返していましたが、日記まで読み返すのはとても久しぶりです。
どうやらこの黒いチューリップは、2020年11月21日の真夜中に、白いチューリップを描いたものらしい。今こんなふうに大胆に黒をつかうのは、なかなかできないと思います。黒という沼に落ちてやる、話はそれからだ!という心持ちをまずつくらないと、黒が暴走して、どんどん増えて、真っ黒い絵になるか、ずーんとしたぼんやり薄暗い絵になって、失敗してしまうからです。黒を舐めて使ったとき、何度も痛い目をみました。
たった4年前のことですが、この潔さに、若さなのか、強さなのか?パワーを感じます。花に全然興味なさそうなのも笑えます。
はっきりと距離があって、おもしろいなと思いました。

うれしいおしらせ / 尾形亀之助さんのポストカード

 
 
おしらせつづきです。
なんと、尾形亀之助さんの詩に、わたしが描いたばらの絵が添えてあるポストカードができています。すてきな紙に、活版で印刷されたもの。
宮城県にある、毛萱街道活版印刷製本所の小熊さんが発行してくださいました。
先月まで仙台/曲線さんで小熊さんがひらいていた展示「タイポグラフィカルをがたかめのすけ 〜金属活字による尾形亀之助『障子のある家』再現展〜」に伴い制作されました。私が描いたばらの絵を見て、それに合う詩を小熊さんが探してくださったそうです。 
私がばらを描いたのは、小熊さんの工房のまわりに咲く小さなばらのことを思い出してのことでした。
 


先月仙台へ赴きましたが、その目的はこの展示の搬入のおてつだいの為でした。案外搬入作業に時間が掛かってしまい、展示をゆっくり鑑賞することは叶いませんでしたが、その他の物販(この展示の図録、復刻版『障子のある家』などなど)をプレゼントしてくださり、図録からですがその展示を味わうことができました。先日ようやく読みましたが、胸がグッとなりました。
小熊さんが復刻した『障子のある家』*についてのいろいろのことを、わたしはうまく言葉にできません。ただただ、その姿勢やまなざしに、安心させられています。
*底本は昭和23年に草野心平が再販本として発行したもの。初版を忠実に再現されたといわれいるそうです
 
図録の中で、小熊さんへ向けて寄稿された、友人でもある熊谷麻那さんの文章『物理的な言葉』が、活版印刷や小熊さんについてのことを伝えるすばらしい文章だったので、一部引用して、ここに載せます。

 以前、自身も開発に関わった機械を、6億キロ先の宇宙まで飛ばし、地球への帰還までを見守りつづけた研究者の話をきく機会があった。6億キロというと、わたしの想像をはるかに絶する。そのひとはなぜ、その道程を進みきることができたのか。話を伺っていくうちに感じられたのは、「そのひとは、そのひとなりの(想像ではなく)実感を、6億キロぶん積み上げたのだ」ということだった。6億キロの道程に、説明できない一歩はないように見えた。
 小熊さんの所作のひとつひとつは、その研究者と同じように、自身にとっての実感を積み上げる必要な過程なのだろうと思う。しかも小熊さんの道には、たとえ6億キロ先まで進んでも、ゴールと言える何かがあるかはわからない。反対に、ふいに明日、ここが到達地点だと思えてしまうこともあるかもしれない。そんな気まぐれな道で、小熊さんは毎日「ま、こんなもんか」と諦めにも聞こえる実感を、静かに、確かに積み上げている。そこに含まれる滋味を、わたしは見ている。

この文章が載った図録や、小熊さんが復刻された『障子のある家』、詩とばらの絵のポストカードは、以下のネットショップから購入できます。よかったらのぞいてみてください。
ちなみに、上の文章を綴った熊谷さんがこの展示に併せて小熊さん宛(正確には、毛萱街道活版印刷製本所 宛)に制作したよみもの『歩 6/100号』も購入できるようです。こちらは、私も黒い丸として参加させていただいています。
(私もなぜか在庫を持っていますので、そのうち販売するかもしれません)

小熊さんのオンラインショップ…☆(クリックでとびます)

たのしいおしらせ / スタンプカード

 

たのしいおしらせです。スタンプカードをつくりました!
各種SNSではなんとなく告知していましたが、ホームページかブログしかみていない方へむけて、こちらでもおしらせさせてください。

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【ルール】
◉市村柚芽の絵がかざってある展示1回ご来場につき1回スタンプがおせます 
(スタンプカードをお店の方に渡しておしてもらってください)
◉スタンプが10個たまったら、ささやかな記念品をさしあげます
◉スタンプは展示ごとに変わる予定です
同じ展示でも、別日にご来場した場合はスタンプがおせます
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最近展示をさせていただく機会が増え、これを利用してなにかたのしいことができないかなとおもい、つくってみました。記念品は何にしようか考え中です。考えているこっちもとてもたのしいので、うれしいです。
来週くらいから始まる東京でのちいさな展示(イトマイさん)からこの取り組みをスタートする予定です。みかけたらぜひ、スタンプをおしてもらってください。
絵そっちのけでスタンプ目当てで展示にきてくれる人がいたりしたらおもしろいですね。各地で展示ができたら、スタンプついでに観光して、はからずもその土地やお店をたのしんでいただけるんではないでしょうか。☆三
 



スタンプかわいい!!!

レモンと瓶

 
 
きのうのスケッチ、レモンと瓶
 
わたしはレモンを描くとき、『レモンイエロー』はつかいたくなくて、『ネーブルスイエロー』がいつもしっくりくる。これに、更に少しの肌色や、ピンクも加えたい。軽い茶色も混ぜたり。朱は調子に乗るとやりすぎになるので、加えるとしたらほんとうにすこしだけ。また、きいろのことをするとき、自然光でやらないと、だいたい失敗する。
レモンのにおいはさわやかさとあたたかみ(やさしい感じ)があって、たぶんわたしはレモンの果肉のすっぱい部分より、ぶあつく不透明な皮に惹かれる。
昔、美術予備校でモチーフ用のたくさんのレモンがぎゅうぎゅうにつまった箱を見た。レモンとレモンが重なったかげが桃色に反射していて、体温があるように思った。


はらはらと砂のように手放したかけらを
波が運んで春になる

(この絵を描いていたとき聴いてたうたの、きれいなことば)

no title

 





 
 
 


(2024-7-30)