2023-06-10

わからないことをわからないままに


休憩に、インターネットを見ていた(疲れるので、休憩になっていない)。昔は飛び込むようにもぐっていたつもりだったけど、今はすっかりはぐれた。いつの間にかついていけなくなって、わからない側の人になっていた(わかる・わからないの世界ではなく、もっと細かな段階にわけられるとは思うけれど)。
さっぱりわからないなあ、と感じるとき、また意味のわからない涙が溢れそうになることがある。

透明な大人たちがさんざんうたっていることは、わたしが、わからないな、と思う若者(といっても、自分と同世代・また自分のある側面もそこに含まれる)に、浸透している気がする。私たちの祈りや後悔は、ちゃんと次世代に反映されているように感じる(局地的かもしれないけど)。それは、あるいは安心だ。
しかし、わからない、と感じることが、誰かにとっての生きづらさでもあるのだろうと想像すると、今度はわたしが生きづらいな、と思うのだった。

心の病気にかかることは、わたしは個人の責任ではないと断言したい。実体のない、大きなもののせいだと思っている。それに名前をつけることはしなくていい。
しょうがないんじゃないか、と、頭によぎる。ただ無責任に。
わたしはいつでも狂いそうだ。でも、自分がもう狂っていることを、自覚している。じゃあ、「狂いそうだ」 と思っているときの先にある状態は、正常ってことなのだろうか。
だとすれば、正常であることは、間違いなのか。わたしは、そうではないと思いたい。
健やかさとはなんなんだろう?

平穏に普通に暮らしたいけど、すべてはわたしの空想なのかもしれないと気付いた。
みんな、それぞれがそれぞれの必要なことしか必要ではない。これは、とても大きな事実。
「他人事」が「自分事」になる瞬間はいつなんだろう。
今って、詐欺師にとってずいぶん生きやすい世の中なんじゃないかなあ、なんて、もしかしたら妬みとか嫉妬からかもしれないけれど、ふと。
 
先日行った狩野岳朗さんの展覧会では、狩野さんが「わからないことを大切にしようと思うんです」と話されていて、よかった。