持続するときめき / 暗黒の意思表示

 


ときメモGSのこと
ゲーム機をもっていないからプレイ映像を見ただけだけど、それでもときめきがすごい。
電源を切っても物語が終わっても(自分の場合はその動画シリーズがおわってからも)なおときめきが持続する。キャラクターはいつづけて、いつまでもときめきがある。
わたしはちゃんとときめかされつつ(?)、いつもその裏で、心底感動してしまう。いかに普段つまらないことにひっぱられて生きているか、思い知らされたようだった。いつからか、「はみでた部分」こそが「本質」だと履き違えて認識していたかもしれない。ちがう、わたしはただ、遊びたい。楽しいことが好き。楽しいを求める道中で発生したしがらみにばかり気をとられ、足ももつれて。
 ときメモGSで心の扉をこじあけられたが、オープンマインドで世の中を見たら、今までと違う景色がひろがっているんでないか、と思った。
ありがとう、ときメモGS..

高畑勲監督のドキュメンタリーのこと。
見てるだけで胃がきりきり痛むようなドキュメンタリーだったけれど、あの現場には理想的な共通意識があって、感銘を受ける。うるうるした。
その意識とは、各自の仕事との向き合い方において自主性があり、自分事として捉えているような状態のこと。映画製作に関わったすべての人たちが「これはわたしの映画だ」と言えるのは、すばらしい。
人間ファーストでなく作品ファーストであるから、人間同士はフラットな関係性に見える。音楽の久石譲さんや作画担当のアニメーターさんたちが監督に意見するシーンがあって、その姿が超眩しい。
監督の姿勢がどうこうという話ではなく、監督と周囲の人との信頼関係が、そして全体が向かっている方向が、またそれによってできた映画が、..つまりは全体が美しい、という話であって、間違ってもこれを美化してはいけないと、肝に銘じる。これを迂闊に実現すれば、あまりにも暗黒な社会になる。だから、他者に強要することではない。だから、暗黒のまわりに自然に暗黒があつまってきてほしい。わいてきてもいいとおもう。
ここで、暗黒の意思表示をしておきます。少なからずわたしは今もなお暗黒でいるので、暗黒仲間の方がいたら、なにか仕事できたらうれしいです。(急な勧誘)
 
 

▲ときメモGS3の設楽先輩の<ガラケーをうまくつかえない>シーン模写。
ぜんぜんときめけない絵しか描けず、描きながら笑ってしまう。
高畑監督の「かぐや姫の物語」の作画枚数は24万枚らしい。
わたしはそのうちのたった1枚も描けないだろう…