卑屈映画日記

 

アニメ版『シュガシュガルーン』をどうしても見たくて、(ずっと前になにかを見るためにコンビニで買ったのに使わずほったらかしになっていた)一ヶ月分のHuluのチケットを駆使して見ていた。ギリギリ有効期限内だった。
絵、家事、寝る前、休憩、なにをするときにも流していたら早々に全話見終わってしまった。期限内は活用しないともったいないような気がして、いろいろ見漁っている。
 
先日はアニメ版の『ピンポン』を見終わった。
アニメ版『ピンポン』は20歳くらいのときに見て大盛り上がり・大絶賛だった記憶があったけれど、今見ると全然だった。なんというか、どういうふうに見たらいいのかわからなくなっていた。変化は当然なんだろうが、不思議だった。
BGMとアニメーションは最高で、それで燃え上がるなにかはあった。けれど、作中の台詞で「才能」というワードがでるたびにすごい速度で冷めて、全てがどうでもよくなるのだった。
アクマか孔文革が主人公だったら、こんなわたしでも楽しめたのかもしれない。(こういう感覚は、卑屈なのかもしれないと思う)
数ヶ月前に、漫画『東京ヒゴロ』を読んだとき、大きな虚無感をおぼえた。結末が苦手だった。久しぶりにこのアニメを見た心象が、それにとても似ていた。
それでも。昔はたしかに感動して見れていた。そのときはそうだった。
思い出の中のキラキラしたペコとスマイルはそこにいなくて、それで寂しいだけのことかもしれない。または、わたしが<わたしの>現実に、毒されているだけかもしれない。
 
『バトル・ロワイアル』という映画を見て、ほんとうに感動したことがあった。
周りの方が絶賛していたからなんとなく見てみた映画『市子』が、とにかくわたしの感性とすれ違うばかりで、少し落ち込んだことがあった。それでその落ち込んだ空気のまま『市子』明けにぶっ続けで見たのが『バトル・ロワイアル』だった。『バトル・ロワイアル』を見終わった頃には朝になった。朝になっても感動がおさまらなくて、そのまま数時間感想を言い合ったんだった。

『キッズ・リターン』もDVDをほしいと思うほど大好きな映画。
『ピンポン』は若干『キッズ・リターン』的なところがあると思うけれど、どうして観賞後にいだく気持ちがここまで違うのか。『キッズ・リターン』は、人生の敗北のあとで、「バカヤロー、まだ何も始まっちゃいねえよ」と言ってくれるからだろうか。そしてそこでエンドロールが流れてくれるから、大好きなのだろうか。(大好きなのです)

Huluで見れたから見てみた『GO』での最後のほうの掛け合い。
 
杉原『俺は何人(なにじん)だ。何モンだよ。答えろよ。俺は何モンだよ!』
桜井『在日韓国人』
杉原『どうして何の疑問もなく俺のこと在日なんて呼べんだよ!在日って呼ぶってことはなあ、俺がいつかこの国から出ていくよそ者だって言ってるようなもんなんだよ。それ分かって言ってんのか。俺は時々お前ら日本人をどいつもこいつもぶっ殺したくなるよ。お前ら俺が怖いんだろ。名前つけなきゃ不安でしょうがねえんだろ、なあ。じゃあ俺はライオンだ。ライオンは自分のことライオンだなんて思ってねえからな。お前らが勝手につけた名前じゃねえか。調子こいて近づいてみろ。頸動脈に飛びついて噛み殺してやんぞ。名前なんてなんだっていいんだよ。マムシでもサソリでも。エイリアンでもいいよ。だけど俺は自分のことエイリアンなんて思ってねえからな。俺は。在日でもエイリアンでもねえんだよ。俺は俺なんだよ。いや、俺は俺であることすら捨ててやる。クエスチョンだ。ハテナマークだよ。物体Xだ。どうだ怖ェだろ。なぁ。何黙ってんだよ。何とか言えよ。なんなんだよ。チキショウ。うるせーな!だからなんなんだよチキショウ!」』
 
 (これを載せるために映画をもう一度再生しました)
これは、わたしに向けられた言葉でもある。
でも、わたしはよく、いろいろなときに、ほとんど同じ言葉で、ほとんど同じことを、頭の中で叫んでいる。このシーンはすごく好きだった。