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花の本をまた開いてみるコーナー⑦(最終回)

 

展示はあしたで最終日です。今日も開きます。
『花の本をまた開いてみるコーナー⑦(最終回)』
第6弾はこちら。

空想の世界から現実へ帰還して、また目の前にある花を見ながら描いてみたとき、ほんものの花はわたしの為に咲いていないというところに、とても安心させられました。わたしが何をしてもしなくても、つぼみだった花は少しずつ咲き、枯れ、捨てなければ朽ちていく。何を思ったり祈っても傍観者でしかいられないことはすごく正しい姿のように見え、当時はそれに妙に感動してしまいました(はたから見たら変な人でしかありません)。枯れることを恐れずにゆっくり描くことができたとき、焦燥感がなくなって視界がクリアになりました。

そんな境地に立てたすぐあとに、大好きな猫とのお別れの日が訪れました。子どもの頃から「猫がいなくなったらわたしも死んでしまう!」とばかばかしいことを本気で思って生きてきたのですが、猫がいなくなっても私の心臓は変わらず元気に動きつづけていて、笑えてきます。花の絵を描いていたときに感じたことが現実となってあらわれたみたいで不思議でした。こうして見返すと、またそう思い直されます。

本に載っている花の絵はそんなときに描いてきた絵たちで終わります。
刊行して1年、あいかわらず私は変化のさなかにいるようです。花の絵を描いたり描かなかったりしつつ、変わらず変わりながら生きています。
まだしばらく花の絵を描きそうなので、どこかで見かけた際は「まだやってんのか」とでも思っていただけたら幸いです。そしてこのコーナーでは私情をつらつらと述べてしまいましたが、この本を読もうとするとき、私が花のことを身勝手にとらえたみたいに、身勝手に読んでくれたら嬉しいです。嬉しいというか、それが楽しいなと思います。

ひとまずこのコーナーは最終回です。
またそのときがきたら、この本を開こうと思います。
頼りない文章をここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

花の本をまた開いてみるコーナー⑥

 
 
スケジュール管理能力がすごくないと、忙しいことに気づかずに「暇だ暇だ」と言えるわけですね。腑に落ちました。焦ってきて目が冴えたので、久しぶりに花の本を開きます。第6弾。
第5弾はこちら。

今回の文章は、本を読むというよりも、本をきっかけに記憶を呼び起こして考察する、というような内容になってしまいました。
たくさん削って完成させたものにゴミを投げつけるみたいな行為な気がしてきましたが、この本に載ってる絵とか文を描いた記憶がおぼろげにあるだけの人の戯れ言と思って、軽く読んでいただけたら幸いです。
 
画像の絵を描いていた時期は、花の絵のほかに空想の窓辺の絵を描いていました。現実にある花や静物ばかりを描いていたから、その反動から空想の世界に惹かれていったという経緯だった気がします。
空想の世界ではすべてがわたしのために存在していて、花はわたしのために咲いてくれ、窓からはわたしが見たい空がひろがっています。
ずっと怯えていますが、とくにそのころは死ぬことが怖くてたまらなく、生きるも死ぬもないような空間に引きこもっていたいと願ったのが、そのようなかたちで絵になってあらわれたのだなと分析しています。2022年の夏〜12月頃まで、そんなテーマの絵を描いていました。
この花の絵には、あの空想の窓辺の空気が漂っているように見えます。美しくて気に入っている絵だけど、どんな花を見ながら描いたのか全然すこしも思い出せません。ぽんぽんした白い丸がなんの植物なのか、そしてどこで入手したのか…。ミステリーです。でもなんらかの花を見ながら描いていたことは思い出せるから、観察はそのときなりにしていたはずです。

2022年12月ごろのブログにこんな一文がありました。
「私から嘘を全部取っ払ったら泥だけが残る。私から発せられる綺麗なものは所詮すべて綺麗ごとだ。悔しい。」
しばらく浸っていたらそんなふうに思えてきて、それで空想の窓辺から旅立って(ちゃんとお別れして)、また現実の花の絵を描き始めたのでした。

花の本をまた開いてみるコーナー⑤

 


 
今日もだいぶ眠いですが開いてみます。
 
今日は文字も読めました。
言葉はミスリードのように思えました。
絵は言葉よりはホントな感じがします。

画像はべつの日に、同じ種の花を描いた絵です。(時系列順です)
これらはたぶん、デルフィニウムという名前をもつ花です。何度も描いているのでおぼえられました。こうして並べると、同じ種と思えないくらい花の形や葉の付き方とかにばらつきがあります。日記を読むとそのときの自分なりに観察していたようだけど、いったい何を見ていたんでしょうか。 
 
「観察は大事」と、絵を教えてくれる人たちにはよく指導されていた記憶があります。
(たしかに観察がすごい絵に感動することは多いけれど、それはその絵の内側に感動しているんであって、観察がすごいから感動しているわけでない。じゃあ自分が観察を強要されねばいけない理由はなんなのか)…とクソガキは疑問を持ちながら絵を描いていましたが、こうして繰り返し花を描いて(このコーナーの③で述べましたが、)はじめて観察ということの大事さに気づきました。
うまくできていなくても、結局なんとなく固執してしまう<観察する>という行為の底には、誰かからの指導が敷かれているのかもしれません。というか、自分で敷いていたのですね。観察したからといって許されることなどなんにもないのに、安心の材料としてそれを駆使しているんだとも思えてきました。

つきたくてついたウソは悪だけど、そんなつもりじゃないウソは悪ではない、と無自覚に分類している自分の頭にも興味があります。鈍いだけかもしれないですが。
こうして絵を並べてみると全部ウソみたいに思えるのが、本当に滑稽というか、愛らしいです。まだまだずっと花を描きたいです。

花の本をまた開いてみるコーナー④

 


夏バテなのか台風のせいなのか、いつもの五倍くらいぼんやりしています。
今日は本当の本当にぼんやりで、まったく読む気になりません。
無でめくっていきます。第3弾はこちら。

このコーナーの前回や前々回なんかは描いたときのことを思い出したりしていましたが、超のつくぼんやりのときは何か思い出そうと思っても思い出せないものですね。
日記は目がしぱしぱするから飛ばします。描かれた花々は自分とはまったく関係ない気がしてきます。

この本の絵は、紙の特性上、原画よりもグレイッシュに出力されました。印刷の立ち会いに伺ったとき、印刷したてはすごく発色がよくて感激したのに、持ち帰って改めて見たら沈んでたということがありました。
人間が遠のき、発色とともに鮮度も洗い流されたんですね。
当時は若干気がかりだったのですが、今はこの色調の大切さを知っています。

がんばらないと読めない日記や散文は、がんばれないので読まなくていいやと読み飛ばします。そもそも読ませる気がないような文字です。今更、こんなタイミングで、デザイナーさんのすごみを感じました。読まなくていいんだこれ!
淡々とめくっていたら最後のページまで到達しました。心が全然動かなくて、すごく嬉しいです(変な感性でしょうか)。
古いアニメーションみたいにおもしろいです。
もしこの本を持っている方はぜひ、ぼんやりの日にも開いてみてください。

花の本をまた開いてみるコーナー③

 

今日も本の続きを読んでいきます。第2弾はこちら。

このページの絵は、とても苦労しました。
観察を怠ってもフィーリングや色彩やタッチでごまかせば勝手に「絵」になってくれるから、それに甘んじて / また、枯れたら描けなくなる、という不安感から、すごいペースで絵を描いていました。が、この花を以前と同じ心情で仕上げようとすると、自惚れで甘ったれでも、さすがに見て見ぬ振りはできないほどに紙上にウソがあふれます。観察が必要でした。

観察。
これを描いているとき、目的は絵を描きあげることじゃないのかもしれないと気づいたんでした。そして、枯れるのを恐れることをやめたいと願いました。誰のため?と聞かれたら、花のため!..とか当時は思っていた記憶があります。

これまでの絵は花に理想を投影してそれを描いていただけだったんじゃないかと、観察した絵を描き終えると、改めて過去の自分への怒りとか虚無感とかがわいてきました。今、絵を見返しても全然そんな感情は沸きません。
怒濤の感情、怒濤の花たち、月日という波にずいぶん洗い流されて、もうだいぶ残ってないです。清々しさに涙が出そうになります。

花の本をまた開いてみるコーナー②


 
今日も読みつづけてみます。第一弾はこちら。

ページをめくると、少し景色が変わった実家の周りを歩いているときみたいな、望郷がありました。完成された絵というより、その筆跡をたどるように見てしまいます。前回ご紹介した①のページと同様、すごく厚塗りですが、何枚か花を描いて調子が乗ってきて、わりかし塗り直さずに描けるようになってきた段階だった気がします。
私は恋とか胸キュンとかよくわからないまま生きていたのですが(欠けた感性に対して少しのコンプレックス的なものも抱えつつ)、花を見てどきっとする感覚があり、これはもしかしたら恋なんではないか?と妄想したりもしていました。
頻繁に花屋に通い、絵は花が枯れる前に描き終えます。とにかくたくさん描きたくて。描きおわった花は大きい花瓶に乱雑に放り込み、茶色く乾涸びたら捨てました。こんな感じだったので、「花を愛でる」なんて言葉からはほど遠い扱いをしてきたというのに、当時の自分は世間で言う「花好き」みたいな人になれたんでないかと勘違いもしていました。恐怖です。
思い出されることは恥ずかしいことばかりです。絵の中の花はぴかぴかしていて、眩しいです。

花の本をまた開いてみるコーナー①


 

イトマイさんで花の絵の展示がはじまりました。
花の本は、これまで描いた花の絵を時系列にならべ、合間合間に日記や空想のお話を織り交ぜた本です。
刊行から約1年経ちました。なんとなく記念して、会期中、自分も久しぶりに花の本を開いてみようという企画を、ゆるくやってみます。今回は第1回。

絵自体はネットにアップしたりするためによく見返していましたが、日記まで読み返すのはとても久しぶりです。
どうやらこの黒いチューリップは、2020年11月21日の真夜中に、白いチューリップを描いたものらしい。今こんなふうに大胆に黒をつかうのは、なかなかできないと思います。黒という沼に落ちてやる、話はそれからだ!という心持ちをまずつくらないと、黒が暴走して、どんどん増えて、真っ黒い絵になるか、ずーんとしたぼんやり薄暗い絵になって、失敗してしまうからです。黒を舐めて使ったとき、何度も痛い目をみました。
たった4年前のことですが、この潔さに、若さなのか、強さなのか?パワーを感じます。花に全然興味なさそうなのも笑えます。
はっきりと距離があって、おもしろいなと思いました。