実際の場所・モチーフ / 色やタッチやサイズやディティール / 環境や感傷 / いい・わるい / を超えたところにある、ただの「風景」に出会えたとき、過去に捨てたはずの感情がまたわいてくる。本当に死ぬのが怖くて、でも死のにおいは甘美だった。
2024-05-13
2024-05-10
『愛のインゲン』のこと
『愛のインゲン』という漫画集の、本づくりのおてつだいをしました。
ワッペン・平(タイラー)こと、古道具ニコニコ堂店主の長嶋康郎さんの描いた漫画をあつめました。てづくり感(しかない) 満載、誤字脱字いっぱいの、ちいさな本です。
(「誤字がたくさんありますが、あまり直してありません。よろしく。」byワッペン・平)
わからない部分があったり、難解な漫画については、ぜひ長嶋さんにおたずねください!
30部限定。
この本は、東京・武蔵五日市駅にあるニコニコ堂と、わたしのウェブショップで購入できます。興味のある方はぜひ。
自分が他人の本の制作に関わることになるとは、想像すらしていませんでした。なんとなくお店に遊びにいったとき、なんとなく漫画を見せてもらって、なぜか本をつくらせてもらうことになりました。とてもふしぎな出来事です。
✦古道具ニコニコ堂
〒190-0163 東京都あきる野市舘谷 220-1
〒190-0163 東京都あきる野市舘谷 220-1
✦ウェブショップ
2024-05-09
卑屈映画日記
アニメ版『シュガシュガルーン』をどうしても見たくて、(ずっと前になにかを見るためにコンビニで買ったのに使わずほったらかしになっていた)一ヶ月分のHuluのチケットを駆使して見ていた。ギリギリ有効期限内だった。
絵、家事、寝る前、休憩、なにをするときにも流していたら早々に全話見終わってしまった。期限内は活用しないともったいないような気がして、いろいろ見漁っている。
先日はアニメ版の『ピンポン』を見終わった。
アニメ版『ピンポン』は20歳くらいのときに見て大盛り上がり・大絶賛だった記憶があったけれど、今見ると全然だった。なんというか、どういうふうに見たらいいのかわからなくなっていた。変化は当然なんだろうが、不思議だった。
BGMとアニメーションは最高で、それで燃え上がるなにかはあった。けれど、作中の台詞で「才能」というワードがでるたびにすごい速度で冷めて、全てがどうでもよくなるのだった。
アクマか孔文革が主人公だったら、こんなわたしでも楽しめたのかもしれない。(こういう感覚は、卑屈なのかもしれないと思う)
数ヶ月前に、漫画『東京ヒゴロ』を読んだとき、大きな虚無感をおぼえた。結末が苦手だった。久しぶりにこのアニメを見た心象が、それにとても似ていた。
それでも。昔はたしかに感動して見れていた。そのときはそうだった。
思い出の中のキラキラしたペコとスマイルはそこにいなくて、それで寂しいだけのことかもしれない。または、わたしが<わたしの>現実に、毒されているだけかもしれない。
『バトル・ロワイアル』という映画を見て、ほんとうに感動したことがあった。
周りの方が絶賛していたからなんとなく見てみた映画『市子』が、とにかくわたしの感性とすれ違うばかりで、少し落ち込んだことがあった。それでその落ち込んだ空気のまま『市子』明けにぶっ続けで見たのが『バトル・ロワイアル』だった。『バトル・ロワイアル』を見終わった頃には朝になった。朝になっても感動がおさまらなくて、そのまま数時間感想を言い合ったんだった。
『キッズ・リターン』もDVDをほしいと思うほど大好きな映画。
『ピンポン』は若干『キッズ・リターン』的なところがあると思うけれど、どうして観賞後にいだく気持ちがここまで違うのか。『キッズ・リターン』は、人生の敗北のあとで、「バカヤロー、まだ何も始まっちゃいねえよ」と言ってくれるからだろうか。そしてそこでエンドロールが流れてくれるから、大好きなのだろうか。(大好きなのです)
Huluで見れたから見てみた『GO』での最後のほうの掛け合い。
杉原『俺は何人(なにじん)だ。何モンだよ。答えろよ。俺は何モンだよ!』
桜井『在日韓国人』
杉原『どうして何の疑問もなく俺のこと在日なんて呼べんだよ!在日って呼ぶってことはなあ、俺がいつかこの国から出ていくよそ者だって言ってるようなもんなんだよ。それ分かって言ってんのか。俺は時々お前ら日本人をどいつもこいつもぶっ殺したくなるよ。お前ら俺が怖いんだろ。名前つけなきゃ不安でしょうがねえんだろ、なあ。じゃあ俺はライオンだ。ライオンは自分のことライオンだなんて思ってねえからな。お前らが勝手につけた名前じゃねえか。調子こいて近づいてみろ。頸動脈に飛びついて噛み殺してやんぞ。名前なんてなんだっていいんだよ。マムシでもサソリでも。エイリアンでもいいよ。だけど俺は自分のことエイリアンなんて思ってねえからな。俺は。在日でもエイリアンでもねえんだよ。俺は俺なんだよ。いや、俺は俺であることすら捨ててやる。クエスチョンだ。ハテナマークだよ。物体Xだ。どうだ怖ェだろ。なぁ。何黙ってんだよ。何とか言えよ。なんなんだよ。チキショウ。うるせーな!だからなんなんだよチキショウ!」』
(これを載せるために映画をもう一度再生しました)
これは、わたしに向けられた言葉でもある。
でも、わたしはよく、いろいろなときに、ほとんど同じ言葉で、ほとんど同じことを、頭の中で叫んでいる。このシーンはすごく好きだった。
2024-05-07
個展 窓辺の肖像
5月の展覧会のおしらせです。
今年に入ってから、家の窓辺の絵を描いていました。
それで描き上がった10枚の絵を、古道具背骨さんの額に納め、展示させていただきます。
美しい本とともに絵を飾れること、うれしいです。
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乾いた窓から
悲鳴のような風音が響く
私は水をもとめて窓辺を立つ
悲鳴のような風音が響く
私は水をもとめて窓辺を立つ
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(東京都世田谷区砧5-1-18 102号室)
2024-05-01
人生の暇
最近はなぜかとてつもなく暇で(こんなことを言えるのはすごいと思う)アニメ「シュガシュガルーン」を見たり、ブックオフに原作の漫画を探しに出向いたりしている。(なんとなく見てみたらすっかりハマり、よく涙目になる)あとは小説を書いてみたり、買ってしまった本を読むためにノートを作って勉強してみたり、お香を楽しんだり。今日はなぜか人の漫画の本を作っている(今も横でプリンターががんばってくれています)。選択肢に<絵を描く>を抜きにするとなにをやっていいかわからなくなって、挙動不審な毎日になっている気がする。
今日は本当は自宅で藍染めをやってみたかったのだった。めちゃくちゃ雨で、調べてみると雨の日に藍染めは「あきらめたほうがよい」とのことだったので、諦めた。暇なのは多分いいことなんだと思う。明日も多分暇なので、今日が雨でもそんなに落ち込まなかったから。
久々に少し読めた本には、「とにかく忘却はいいもの」とあった。多分それに感化されて、やらなきゃいけないことも普通にすっかり忘れている。だから今、やることがゼロなような気がしている。これを書きながら思い出したけれど、そういえば今月、展示がある。このブログでもその告知をしといた方がいいかもしれない。見事に忘れていた。後でやります。なにもかもが終わらない予感がして心配しすぎて、一ヶ月以上前にすべての準備を終えていたために、最近はもうその次の展示(四ヶ月半後)の心配をしていた。ある意味すごい余裕である。焦燥感と不安はどうしても拭えないが多分大丈夫なんだろう。あとは口座残高のことを忘れたらわたしは無敵だと思う。
今作っている本は暇だからという理由だけで製作しているわけではないけれど、なんかすごくよかった。この漫画の作者が自分だとしたら踏みとどまっていたかもしれないことに、気付かずがつがつ歩けてしまう。少し危ない。これは編集ではない、これはコラボだ、と頭に言い聞かせている。わたしは編集なんてできない。
しかし、少しでも暇があるとなるべく有意義に活用したいと思う自分(人間全般そうなんでしょうか?)はなんなのだろう?切羽詰まって焦ってるときの方が無意義に暮らしているような気がしてきた。