2024-04-22

翳り

 


描きたいように描けなかったけど、絵と花とを見比べるとこれでいいような気もした。

2024-04-21

愚直ダッシュ

 

しっくりこないこと・嫌悪すること、についてもやもや考える。
先日お断りしたお仕事のこと。しっくりこない、ということを理由に、お断りさせていただいた。どうして自分は「直感のワクワク感」や「ありがたさ」で承れないのか。それは別に悪いことじゃない。こういう出来事があるとき、自分が大切にしていることがなんなのかよくわからなくなる感じがある。断ったとき、なんか拭いきれてない。なんなのか。
嫌悪について。あー、いやだなと感じるとき、対象を自分の鏡として見ている気がする。相手を概念的/観念的にしか捉えていないような。鏡なので、自分が変われば相手もまったくちがうように見える。笑えなかったお笑いが、笑えるようになったりする(逆も然り)。これはいいことなのか悪いことなのか、そして当たり前のことなのかよくわからない。こんなんでいいのか?と今は思う。そんなふうに人を見ちゃって大丈夫なんだろうか。

今描いている花の絵がうまくいかない。うまくいかないと、自分への信頼が、ぴしゃりと割れる。薄いガラスのように張り詰めていて脆い。まあ、絵についての信頼など、そんなものでいいんだろう。というかいつまでもその程度のものにしかならないだろう、わたしの場合は。
筆跡がとてもいやらしく媚びてくるとき、おしまいが近づいているように思う。気を着けないといけない。もしくは決意しないといけない。描き直して塗り直して。絵の具を塗り重ねすぎて全然乾かなくて暇になる。暇になるとすぐ、こうやっていろんなことを考えてしまう。気付くと水バケツは真っ黒で、それは自分の腹の底の感情があらわれたみたい。
きれいな花を描けばきれいだと喜んでくれる人は一定数いてくれて(それはありがたいことである)、だからこんな葛藤は自分以外には重要なものでもないんだろう。まあ当たり前か。でも時々ばかばかしくて笑えてくる。ほんとうにのんきだと。でもわたしはばかばかしさとややこしさを優先したい。多分そっちが本体(正体)だから。しっくりこないことはこれと隔たりがあるということかもしれない。
 
愚直ダッシュ!いにしえの大好きな言葉。わたしは多分、いろんなことを愚直ダッシュで切り抜けたらいいんだと思う。大事なものを大事にするには。もうすいませんって言うなと怒られながらすいませんと言いながら愚直ダッシュで去って行くのが多分身の丈にもあってる。そのラインだ。その意気だ!ある種わたしの人生は難解マゾゲーかもしれない。

2024-04-17

リボン

 
 
描くものについて考えていたけど、また花を描くことにした。
最近はまた、花を描くことが身体にあっているみたい。ほんとうは「フランネルフラワー」という花を描きたかったけど、植木鉢でしか売っていなかったため断念した。それでもう一回自分と見つめ合って、前描いたことのある、茎がふわふわした水色の花を選んだ(名前は知らない)。なんで植木鉢だと買えなかったんだろう。高かったからというより、軽薄だからかもしれない。
 
描かねばならないものなんてない、描きたいものがあるだけ。それをわたしは絶対にわすれてはいけない気がする。最近自分の絵に値をつけすぎている。とにかく自分はまったく潔癖でない、とよく思うが、つい一昨日くらいに、潔癖な人間なんてどこにもいやしないんじゃないかとも思った。いるかもしれんけど、そんなのわたしは信用できない。多分、みんな泥。神格化なんてするもんじゃない。昔の絵を見て、人間嫌いが露骨にあらわれていて笑ってしまった。あのときと何が違うのだろう。
さっき、チューリップを二輪捨てた。艶のある茎だけじゃ、だめなのか。わたしは。
 
 
チューリップの花びらはリボンのように台所に舞った。

2024-04-15

打ち砕かれて親友とまた会う

 

 電車のそばで、一本だけ咲いていたチューリップ。
 
ここ数日、自分の外にあるものから元気をもらうことがたくさんあって、とても元気だった。(その勢いに任せ、今日はとても久しぶりに髪を切りに行く)
 
 
会ったことのない、でもとても大事だと思っている人から電話で教えてもらって出会った、ある言葉(とその裏側にあるその人の存在)。友人が描いた漫画の本が刊行され、その漫画に添えられたあとがきの言葉。実家で部屋を掃除しているときに出てきた、母方の祖母からの手紙に「大好きな柚芽ちゃんへ」。友だちとの長電話(私が延々「バトル・ロワイアル」のことを話していた)、時々訪れるお店にて長話(「モテ」のことを延々話していた)。ぜんぜん切実なんだけど、切実だと大声で言えないみたいな、そういう話題の数々。
家で引きこもっていただけでは絶対に出会わないであろう、まぶしい体験や記憶たちに回復させられる。
 
外はいいもんかもしれない、と思いかけたとき、いい気分で古着屋街の古着屋さん(オシャレ)に入ってみた。
するとさっきまでHPマンタンだったのが、三撃くらいでゼエハアしだす。せっかく古着屋さん(オシャレ)に入れたのだから、普段絶対着ないような色の服を一着ぐらいは買おうと思っていたのに、逃げるように店を離れてしまった。そのとき着ていた服だって普段の自分からすると「色がある」服だった。派手なんじゃないか?かわいすぎる色じゃないか?と思っていたその服は、ここに並ぶ数々のカラフルな服と比べるとすごく地味なので、もはや無彩色に分類させられるような気すらした。その古着屋さんは色味ごと陳列しているから、ギリギリ「ピンク」の棚にはおさまらない色だったかもしれないと思う。お店が混雑してきて、ギラギラファッションをしている人に包囲されているとき、自分は部屋着でパーティーに来てしまったような気分になり、それで逃げるように店を出た。
 

 
商店街を早歩きで逃げているとき、数日前に見て回復させられた言葉をおもいだし、また読み返す。わたしはこれらの詩と親友だとおもう。勝手に。
勝手にこの詩との出会いを持ち帰ること、そしてこれからの人生でこの詩と何回もおしゃべりして作者のことをよく知らないままに仲良くなることを許してくれるのなら「芸術」とはすばらしいものじゃないかと、人生で初めて思った。


友人、大横山飴さんの漫画の内側では、昔大横さん含む同世代の友人たちと歩いたりドライブしたり(彼がとても長い時間運転してくれたのだった)動物園に行ったりしたときに見た景色が当たり前の顔をして存在していた。わたしはそれで思い出した。時間は流れていた。ああ生きていてくれてありがとうと思った。

2024-04-12

きっとおもいだすころにはわすれてる

 
 
 忘れるために描くのかもしれないと思った。
 
とてもひさしぶりに花を描いていた。
何も考えずに描いていたら浮かんでくる色や形が懐かしさを帯びていた。すこし前の自分(一年とすこし前くらいの)に出会ったようだった。
でもわたしが観たいと思う箇所は違っているし、筆の置き方もちがう。黒について思うこともちがう。あのときと同じ筆跡はあらわれない。もうあのときの自分ではないのだと思った。そしてあのとき思っていたすべてのことをあのかたちのまま思い出すことはもうないのだろうと思った。花の絵を描くといつも、少しずつ離れていることを実感する。そして思い出すころにはもう遠くにいる。
花を描いていると、別の絵を描いているときよりもたくさん気付かせてもらえる。自覚できるだけ自我をとりのぞいて描いているからだろうか。
 
 
 
窓に桜が