なにか生えているひとたち

 

 

みんな頭になにか生えている(もってる?)
 
おくっていただいたCDに入っていた歌が聴きたかった言葉と音をしていて、聴きながら洗濯物を干したり、郵便局に行ったり、珈琲豆を挽いたりしていた。すぐに夜がきた。
脳内が漠然と不穏なのは一昨日くらいから変わらずで、以前だったら寝込んでしまっていたかもしれない。言葉も旅行の計画も手先も不器用でうまくいかない。つかっているMacもさまざまな機能が使えなくなって、いったい何に時間を費やしているのかと情けなくなる。数ヶ月前まで立てられていた献立も考えようとすると心どこかに飛んでいく。
 
ぼんやり歌を聴いていて、あの人の絵をおもいだした。それから、しばらく連絡をとっていない友だちに、この歌のことを教えたいと思った。きっとあのお店にCDがあるだろうから、買って、送ってみようと想像したり。べつの友だちから、コンビニで新発売のグミについての連絡がきた。わたしはいつも新しいグミを見張っているから、もう知っているグミだった。そういう日常に、さまざまなものの気配に、わたしは回復させられていると気づいた。遠くの大切な人は、どうしたらずっと元気に生きていけるかと考える。直接できることは、やっぱり、ないのかもしれないと思った。
 
心配だけは人一倍、しかしいつだってできることはとんでもなく少ない。なんて無力なんだと嘆きたくなるのはぐっとこらえる。できることがないということは、きっと、絶望ではない。できることがないからできることも、ある。
とてもとても単純でもろいねがいごとは、きちんとかくまって、ひとりで祈る。それがどんなに辛い現実であろうと、そのねがいは宝物だ。

 
 
八百屋さんで野菜を買って、お肉屋さんでお肉を買って、珈琲屋さんで珈琲豆を買って、リュックも手提げもパンパンにして、自転車でひゅうと帰った。少しだけゆとりができた気がして、商店街まで買い出しに行けた、ひさしぶりだった。
自転車に乗っているあいだにぽんぽんと浮かんでくる考え事はいつのまにか妄想に接続されて、妄想の中の結論が確信みたいになってくる。少し狂っている。最近花を描きすぎたのか。
空を見たら、雲のはざまから光が神々しく射して、縞模様になっていた。内部の不穏とは全く関係のない風景に安心させられる。
 
家に帰ったらすぐに耳をふさいで、買ってきた野菜を茹で、ひじきは煮た。ほうれん草は熱湯にいれるとすぐ鮮やかなみどりになって、見とれていたら茹ですぎる。数時間台所に立って、ひさしぶりに耳を開けて、送ると伝えてあった荷物に同封したいお手紙に、どんなことばをつかったらいいか考えた。全然わからない。こんなに騒がしいのに出てくる言葉はぜんぜんない。
おおきな入道雲は見るのより描くほうが好きだ。うまく描けたことはないけれど、不安を言葉にする前に雲となって浮いてくれるようで楽になる。

線を引いて

 
 
 ぼうっとしていたらインターネットでも現実でもAIで生成された画像が蔓延っている。その出回り方はコロナウイルスのような速度に見えるが、きっとほんとうはもっと早い。AIの発達はその早さを見ていて不気味に感じてしまうが、自然な流れなのだろう。現状は「こうなったから、こうなった」というような当たり前の結果にすぎなくて、個人的にいろいろ思ってしまうことはあるけれど、意志について強要することは暴力的で、その暴力がよい暴力なのかわたしには分からない、だから誰も責めたいと思わない。ただ、ただ純粋に恐怖がある。それはAIに対してというよりも、人間に対しての恐怖だ。

 東京で育ち、幼少からパソコンに触れてきたわたしは、それ以前の人たちが持っていたとても大切なものの一部が、まるごと落っこちているように思う。パソコンがあったから楽しかったこと、生きてこれた時期はあるけれど。落っこちたものについて後から情報として知っても、それは情報でしかない。とってつけたような豊かさは、嘘ついた気分になって苦手だ。それでも普通に楽しくかなしく、自分なりに豊かに生きていけた。ただ、いつのまにか全然別の地点が「普通」とされていることに、気づけていたかは分からない。

 未来の子どもが、線を引くと紙が少しへこむこと、鉛筆の芯が丸くなっていくこと、消しても消しきれずに傷みたいに残ってしまうこと、使うほど黒くなっていく消しゴムとか、色を塗って、乾くころには全然違う色になっていること、水を絵の具で汚したりすること、観察をして、自分の目の頼りなさに気づくこと、腐ったモチーフを捨てるときに思うこと、できた絵がモノとして家の中を占領していくこと、ものをつくるには代償があるということ、それを知ること、とか、とか、書ききれない、つまりそういう豊かさを認知するのが、今よりずっと難しくなるんだとしたら、それはすごくたいへんな未来だと想像する。AIの発展は希望だけれど、滅んでしまうのではないか。本質的なことが。
 
 震災を知らない世代がいることに、まあそうかと思いながらも内心驚いてしまったとき、戦争というものは自分からとても遠い存在だと当たり前に思っていた子どもの頃の自分に対して、同じ驚きがあった。かなしいことをかなしいと思えなくなることは、怖い。自分もそうなっているのかもしれないと思うと、とても怖い。
 どこかに道はあるだろうが、それを見つけたとしても、すごくつまらない世の中だって思ってしまったらどうしたらいいんだろう。

 人はじゅうぶん生きたかもしれなくて、もう滅んでしまったってそれでいいのかもしれないのかなとか、破滅的に考えるのはわたしにやさしいだけじゃないかとなったり。じゃあ残しておきたいという気持ちはなんなのだろうかとか、ぐるぐるぐるぐる、AIで生成された画像を見るたびに、連鎖的にこんなことを考えこむ。考えてしまうのは自分の生きているうちにもっと近くでこの問題と対峙することになりそうだからなのか、それとも本能的なものなのか。想像通りの未来なんてこないだろうが、心配性だからこうなってしまう。新しい知らない豊かさだってきっと絶対にあって、こんなのは、ただの懐古主義、かもしれない。なるべく、なるべくは、まん中でいたい。平常でいたい。とてもばかばかしいような、結局、暇なだけかもしれない。

屈強な花


(2025-7-29)

(2025-8-8)

(2025-8-25) 

 (2025-8-22)
 
一昨日の晩、新しいノートに自分はどうして花を描いているのか考えるために書き連ねた。こんなところで発表することでもないのかもしれないけれど、別に表に出したくないわけでもないからなんとなく載せてみる。最近の自分は、描いた絵の意図が伝わって欲しいとか何か感じて欲しいと思わない。感じてくれたならそれはそれは嬉しい、けれど、それは絶対に目的ではない。「生きていくこと」と「ちゃんと死ぬこと」と「花を描くこと」は、自分の中で同じ意味を帯びている。それに一昨日気がついた。私は、葛藤の地獄、わからないの地獄から抜け出せなくても、感傷には浸れるだけ浸るし、物思いには耽るだけ耽るし、嘆けることはもうさんざんに嘆いて寝込むが、そんな私的なものとはおかまいなしに、とにかくどんどん描かなければいけない、そんな気分があります。

色がある

 


 昨日の夕方に駅に向かっていると、緑色のズボンをはいた人、緑色のワンピースを着ている人、緑色の帽子を被っている人とすれちがった。そのみどりが全部あざやかなみどりだったので、なんとなく不思議だった。流行っているのでしょうか。晩の帰路でまた、みどりが目立つ人を見た。
 
 今日のお昼、灼熱に怯えながら、はっぱの上をぴょんぴょんジャンプしまくるすずめを横目に、自転車こいでどうにか花屋に行った。品揃えはたいへん少なく(暑さでだめになるからでしょうか)少しでも涼しい花をと青いリンドウを、リンドウが一瞬で枯れてしまったら立ち直れるかわからないという理由で屈強そうなみどりの謎の植物を買って(こちらは別に描くつもりなく)、満足に帰宅した。
 帰ってから数分、とうもろこしを茹でたい気持ちがおさえられなくて結局また外に出た。
なぜか枝豆も買って帰ってすぐに湯搔いて、とてもおいしかった。わたしは昨日あたりからずっとみどりにひっぱられている。
 
 先日、仙台でとてもおいしい枝豆を食べた。それは比べ物にならないくらいべつの枝豆だった。あれはなにをどうやってあんなふうにしたのかなあと想像しているうちに雷が鳴りだした。描こうと思っていたのに部屋は真っ暗だった。でも今日はとうもろこしと枝豆を湯搔けたので大丈夫。身体の中にも、窓辺にも色がある。と、爽やかにあきらめられてよかった。あざやかなみどりを纏う人たちの気持ちがすこしだけわかった。ような。