線を引いて

 
 
 ぼうっとしていたらインターネットでも現実でもAIで生成された画像が蔓延っている。その出回り方はコロナウイルスのような速度に見えるが、きっとほんとうはもっと早い。AIの発達はその早さを見ていて不気味に感じてしまうが、自然な流れなのだろう。現状は「こうなったから、こうなった」というような当たり前の結果にすぎなくて、個人的にいろいろ思ってしまうことはあるけれど、意志について強要することは暴力的で、その暴力がよい暴力なのかわたしには分からない、だから誰も責めたいと思わない。ただ、ただ純粋に恐怖がある。それはAIに対してというよりも、人間に対しての恐怖だ。

 東京で育ち、幼少からパソコンに触れてきたわたしは、それ以前の人たちが持っていたとても大切なものの一部が、まるごと落っこちているように思う。パソコンがあったから楽しかったこと、生きてこれた時期はあるけれど。落っこちたものについて後から情報として知っても、それは情報でしかない。とってつけたような豊かさは、嘘ついた気分になって苦手だ。それでも普通に楽しくかなしく、自分なりに豊かに生きていけた。ただ、いつのまにか全然別の地点が「普通」とされていることに、気づけていたかは分からない。

 未来の子どもが、線を引くと紙が少しへこむこと、鉛筆の芯が丸くなっていくこと、消しても消しきれずに傷みたいに残ってしまうこと、使うほど黒くなっていく消しゴムとか、色を塗って、乾くころには全然違う色になっていること、水を絵の具で汚したりすること、観察をして、自分の目の頼りなさに気づくこと、腐ったモチーフを捨てるときに思うこと、できた絵がモノとして家の中を占領していくこと、ものをつくるには代償があるということ、それを知ること、とか、とか、書ききれない、つまりそういう豊かさを認知するのが、今よりずっと難しくなるんだとしたら、それはすごくたいへんな未来だと想像する。AIの発展は希望だけれど、滅んでしまうのではないか。本質的なことが。
 
 震災を知らない世代がいることに、まあそうかと思いながらも内心驚いてしまったとき、戦争というものは自分からとても遠い存在だと当たり前に思っていた子どもの頃の自分に対して、同じ驚きがあった。かなしいことをかなしいと思えなくなることは、怖い。自分もそうなっているのかもしれないと思うと、とても怖い。
 どこかに道はあるだろうが、それを見つけたとしても、すごくつまらない世の中だって思ってしまったらどうしたらいいんだろう。

 人はじゅうぶん生きたかもしれなくて、もう滅んでしまったってそれでいいのかもしれないのかなとか、破滅的に考えるのはわたしにやさしいだけじゃないかとなったり。じゃあ残しておきたいという気持ちはなんなのだろうかとか、ぐるぐるぐるぐる、AIで生成された画像を見るたびに、連鎖的にこんなことを考えこむ。考えてしまうのは自分の生きているうちにもっと近くでこの問題と対峙することになりそうだからなのか、それとも本能的なものなのか。想像通りの未来なんてこないだろうが、心配性だからこうなってしまう。新しい知らない豊かさだってきっと絶対にあって、こんなのは、ただの懐古主義、かもしれない。なるべく、なるべくは、まん中でいたい。平常でいたい。とてもばかばかしいような、結局、暇なだけかもしれない。