時間のつかいかた


 

一日のなかで絵を描いている時間の割合はちいさい。日が沈んでオレンジ色の電気を点けてしまうと、色味がわからなくなって絵の具が使えないから、強制的に片付けていた。
最近、その対策として太陽光に近い色味の電球を買ってみたら、なんと夜にも描けるようになってしまった。いつまででも描けてしまう。ノートに書いた「やることリスト」のことは忘れ去って。
 
今日はそれを意識的にやめてみた。それで、「やることリスト」に書いてあった通り、お風呂に入った。お風呂から出たらまた描くかもしれないと思い、机の上に絵の具や筆を散らかしたままで。しかしお風呂に入ると、目が覚めた。絵を進めるよりも大切なことがたくさんあったことを思い出した。「やることリスト」に書いてあって、まだチェックをつけていない項目たち。途中の絵と机まわりを片付けて、「やること」の消化作業に徹する。洗い物をして、レシピ通りに晩ご飯を作った。
 
躓くと、立ち直るまでに数日はかかる。そしてその躓く原因はささいなことであり、それは、「夜にお風呂に入らない」とか「午前中に起きれなかった」とか、そういうもの。それを防ぐには「早く描き進めなければいけない気がする」という架空の不安から出来るだけ早く醒めて、絵を描くより大事じゃなさそうな「やること」をやればいい。それは平穏に繋がる。わたしがもっとも大切にすべきは平穏。それさえあれば、楽しい毎日。夜に絵が描けなかった頃、絵の執着からは強制的に逃れられていたから、ある意味よかったのかもしれない。強制力はすごい。電球を知ってしまったらもう戻れない。慎重にならねばいけなかった。
 
そういえばアドラーは、「仕事」は「労働」だけではないと語ったという。「仕事」には「家事」や「人との関わり」も含まれると。わたしはそこに「暇」も入るんでないかと考えている。今のわたしにとっての「労働」がなんなのか考えると「絵」がよぎった。よぎってしまった。絵が労働になってはいけない。そんなことになったらわたしは多分、終わる。終わるだろうなあ。気をつけます。

第1回更新のおしらせ / 市村柚芽エッセイ『RUN』

 
 
日遅れの、メリークリスマス
クリスマスの夜に、すなば書房さんでのエッセイの第1回が公開されました。
よろしければご覧ください。
すなば書房さんでは、年末年始に読みたい本も見つかるかもしれません。
 
市村柚芽エッセイ「RUN」第1回目:☆(クリック)
すなば書房さん:https://sunababooks.stores.jp/

連載のおしらせ / 市村柚芽エッセイ『RUN』

 

ワクワクなおしらせです。
インターネットの古本屋さん・すなば書房さんにて、「本」にまつわるエッセイを連載させていただくことになりました。
初回は12月25日(水)21時頃に公開予定です。
クリスマス感は皆無な文章ですが、なんとなくクリスマスに合わせてもらいました。
ぜひのぞいてみてください!
 
 「ごむの道」みたいな、選ばれし者しか辿り着かないようなブログサイト(?)で文字を扱うのとはワケが違いますから、言葉のひとつひとつを辞書で引いてみたり、人目を強く意識するようにしていたら、二万字を超えてしまいました。二万字越えを分割して、しばらく連載していただきます。
なかなか書き終わらなかったり、急に「やっぱり無理です」なんて言い出したりしたわたしのことを、すなば書房さんはずっとあたたかいまなざしで見守っていてくれました。感謝でいっぱいです。

すなば書房さん:https://sunababooks.stores.jp

ガマくん




だめになってくると机の上の余白がなくなる。あと、床も狭くなる。
余白は、貯まっていく領収書と、処方されたお薬の説明、手紙、コード、数日前の行動のメモで埋められている。今日はその第一歩目として領収書の整理をした。
仕分けし、入力されているのは10月8日までだった。かつての有能な自分は、どこまで計上して何日から入力すべきなのかを書き残しておいてくれた。救世主のようだった。
10月8日以降の領収書で各科目ごとに棚に仕分けされて入っているのは10月の後半までで、その時点で消耗品費や交際費の棚はぎゅうぎゅうになっていた。ぎゅうぎゅうになった棚を見て「もう入りきらないからそろそろ入力するか」とはならずに「見て見ぬ振り」を選んできたらしい。11月前半から今日にいたるまでの領収書が、机に散乱し、蓄積していた。その枚数は、必要だった元気と、蓄積する不安の数値であると思う。経費に認められず、破棄すべき領収書(つまりゴミ)までもが置き去りで、思ったより大量だった。つまり、元気がなかったとき、わたしは、なにも出来ていなかった。

パソコンで、領収書の情報と全ての口座の動きを入力した。
「使っているブラウザの対応が終了したのでアップデートしてください」と言われる。パソコンのバージョンが古いためにアップデートできない。刻一刻と終わりが迫る。不安だ。
それでも、口座の残額と計上した金額がぴたっとあうことは、とても気分がいい。わたしにとってこの作業は最大の癒しである。たったひとつの正解があることが、こんなにも嬉しいと思ってしまうような大人に育ってしまったのですね。
最近、税金を払うと心がゴッソリ持っていかれる感覚があるが、雨雲的な不安が支払った瞬間に晴れる。心の平穏が少し近づく。だから、ギリ安心が勝つ。口座の残高を見て泣く日は近いから、結局落ち込むのだけど。とにかくお金が必要だ。でも上手にお金を稼げないから、上手に働けないから、困っている。どうしたらいいのだろう。
 
机の上の余白が帰ってきて心にも余白ができた。
できることなら不安が発生する前段階で処理したい。何度かは試みた。しかし日常の中で小さくとも想定外の出来事があると強く影響されてしまい、そのルーティンは簡単に崩れる。楽しくても苦しくても崩れる。崩れると領収書も不安も積もる。
 
「あなたは『ふたりはともだち』のガマくんにそっくりだと思うよ」
と言われた。認めるのは癪だ。なにをわかったように。でもたしかに、認めざるを得ない。「ガマくん」の行動や感情の理由が、手にとるように分かってしまうから。
一日の予定(朝起きるとか、朝ごはんをたべる、とか)を箇条書き書いた紙が吹き飛ばされてしまい、不安で何もできなくなる「ガマくん」の物語を読んでいたとき、自分を見ているようだった。客観的に見たら喜劇である。それは救いなんだが、本人としてはつらくて仕方がないだろう。これをおもしろ話として書いたアーノルド・ローベルは天才だと思うが、つらさは残る。(でも、これが最善だと思う)
 
数字はわたしにとってすごくやさしい。「ガマくん」も多分領収書の整理は好きなんじゃないかな。安心できるよ。教えてあげたい。

みつめるさきは

 


 
ゆいさんと知り合ったのは、ゆいさんがまだ高校生で、わたしはたぶん浪人生をやめて、清掃員のアルバイトをしていた頃。彼女は出会ったときからずっと少女を描いていた。

いつからだかもう忘れてしまったけれど、わたしは展覧会が苦手になった。絵を見ることも、気づけばすごくむずかしい。落ちついたふりだけできるようになった、かもしれない。絵を見ること、なんでそんな簡単なことができないんだろうと、たまに落ち込む。わたしが落ち込む原因は、そんなあほらしいことばかり。
展覧会の会場では、視線や物音が気になって、気配りの不安が押し寄せてくる。その場から走って逃げたくなる。深呼吸をして修行のように長い時間見つめていなければ、ほんとうに絵が見られない。でも、会場には他のたくさんのお客さまがいらっしゃる。そんな中で独り占めすることは、意識が散り散りになってしまって、できない。
それでも、時間制限があるわけでもなく、予約制でもなく、ふらっと入ったギャラリーでたった1枚の絵を長い時間見つめることが叶う会場が、ごく稀にある。そんなとき、わたしはしずかに感謝する。
絵をそのように観られたときにはじめて、そこに蓄積した時間を、質感や絵の具の厚みを知る、その人の架空の側面の事実を知る。
 
昨日はゆいさんの絵をゆっくり鑑賞させてもらったけれど、 それでもやっぱり観きれていなくて、何度展示に赴いたって観きれるわけがないと思って、いただいた冊子を開いた。質感や絵の具の厚みはわからないけれど、遠くなった気配とともに猛烈な証拠が、わたしの手によって淡々と過ぎて戻って。言葉にならない感情が喉まで押し寄せるから、どうにもならず写真に撮った。
 ゆいさんの描く絵のなかの少女たちは、遠くを見つめながらそこにいる。答えがなくて、迷いのまん中で、誰からの承認もないままに、封じ込められたみたいに。
わたしはどういう絵が良い絵でどういう絵が悪い絵なのか、価値ある絵とはどういうものなのかわからない。だからなんて感想を述べたらいいかさっぱりわからない。識別せずにそのままのすがたを捉え続ける彼女のまなざしを、わたしはただただ、ありがとうと思う。

no title



 
 

 
 
 

 
(2024-12-1~12-15)
ほとんど家から出なかったけど周りのひとのやさしさを浴びてなんとか起き上がれた12月の前半
ありがとうとおめでとうの気持ちで、ひとつの花でふたつの小さな絵を描いた 
贈るために絵を描けるようになったのは、変化だな
振り返ってみればひとつのこらず全部大切な瞬間で
いらなかった時間なんてないのだと思った

京都















▲電線とひこうき雲が同じ傾きで空に
画像3枚目…『コーヒー ポケット』のサンドイッチ。ほんとうにおいしかったな。

とてもとても暑くて、観光客が多すぎて、わたしの右肩はぼろぼろで、コーヒー飲んだら胃がもったりとして。東京に戻ってすぐに整骨院に行って、電気を流してもらった。あんまり効かなかった。自分のへっぽこさに落ち込んで、運動を始めた。
大変な旅だったけれど、でも、写真を見返していると、思い出きらきら。大切な時間を過ごしてたことを今ごろ知る。遅いな、遅いな。
『コーヒー ポケット』のテレビでは、京都の道路の中央分離帯にスイカが生えたというニュースが流れてた。わたしは体調悪くて、それを茫然と見てた。
 
(2024-9)

no title

 







(2024-9)

no title

 





(2024-8)

ほんとのほほえみ

 


「ほんとのほほえみ」を、いろんな人から、すごくわかりやすいかたちで、たくさんたくさん、いただいた。かたちのあるもの、ないもの。いろいろ。
星のクッキーの横に、サンキャッチャーの虹が光って、流れ星のように見えた。すぐ写真を撮ろうとしたけれど、 うまく撮れないあいだに消えた。
ほんとうは、そういうものに囲まれて生きている。だめになったとき、どうしてそれに気づけない。
 
空がきれいで心躍るのは、その美しさになんの疑いもわかないからである。太陽はその傾きや高さで、偶然に雲をドラマチックに演出する。それはただの現象であり、わたしの心模様を加味してそうなってくれているわけでない。ひたすらに明白で、それに助かってしまうときがある。それが美しいと感じたときに、のほほんと、きれいだね、と思えることの幸福を実感するようになったことは、少し、淋しいことだと思う。
幸福なんて感じずに、のほほんと、きれいだね、と言えたらいいのに、と願う。
悪いことではないけれど。
いつかまた、そういう心持ちで、それを言える日がきたらいいなと思いながら、暮らす。
 
ほんとのほほえみは、たしかにわたしを癒してくれた。
それがうれしい。ありがとう。

なみだがひとつぶ

 
 
躓くときには、ほんとうに、あっけなく躓く。B'zとアドラー心理学で無敵だったのは、やっぱりただの思い込みだった。人生に無敵はない。実際はあるのかもしれないけれど、わたしのようなひとには「ない」くらいがちょうどいい。
 
数日前に、ひどい目眩があった。しょうもないことで落ち込んで寝込んで、久しぶりに起き上がって、シャワーをあびた後のこと。目が見えなくなって、耳が聴こえなくなって、立っていられなくなった。ゆっくりと意識が遠のく。そのあいだ、「死にたくない」より「この苦痛から早く解放されたい」と願っていて、おどろいた。意識は飛ばず、今度は猛烈なお腹の痛み。冷や汗が久しぶりに流れた。そのときも、不安より、痛みばかりを感じていた。
痛みから解放されたあとには、いつもの通り、ちゃんと不安がやってきた。あの目眩はなにか大変な病気の兆しなんではないか、この後すぐに亡くなるんでないか、とか。猛烈に調べだしたら、大変な病気ばかりが目に入る。
痺れなどはなく、胃の気持ち悪さと痛みだけが残るから、消化器内科に行った。3時間待った。
ようやく呼ばれて帰り際、お医者さんに「症状でググらないでくださいね」と言われた。心配になってしまうんです、と伝えると「わたしたちはこの道でウン十年やっているのだから、ひとまずは信じてみてください。とりあえずは処方した薬をちゃんと服用してみてください。それでも治らなかったら、もう少し精密な検査をします。とにかく、一旦、大丈夫なんです、心配すると、余計悪化しますからね」と言われた。ハイッ!と言って帰る。いいお医者さんだと思った。
 
しかし、たぶん、死ぬときも、こうやって躓いたみたいに、あっけなく死ぬのだろう。やり残したこととか後悔とか、思い出す隙もなく。毎日浮かんでくる不安は、裏返った架空の安心、みたいなもの、かな。
祖父が亡くなったとき、涙をひとつぶ流したらしい。なんの涙だったんだろうと時々思い出す。祖父はわたしと違って病院がきらいで、病院についたときには身体がぼろぼろだった。亡くなる寸前まで、靴下を編んでいたんだ。冬。ちょうど今ごろだったかな。頑固なひとだったけれど、孫のわたしにはいつも甘かった。なんでも作ってくれた。悪いことをしたとき、謝れなくても許してくれた。だっこしてくれたとき、いつも酒臭かった。
 あの涙は、もうちょっと生きていたくてあふれたのか。死ぬのが怖くて泣いたのか。それとも、すべての感情を涙として最期に見せてくれたのか。あるいは、ただの生理現象か。わからない。
わたしはこの世から去るとき、涙を流すのだろうか。流すなら、どんな涙を流すかな。
 
「大変なひとは大変だけれど、そのひとのほんとのほほえみで、助かるひともいる」
さっき、電話で聞いたこと。思い出したらそのままの言葉は行方不明で、もしかしたら全然ちがうことを話していたかもしれないけれど。すっかり乾いた土に、きれいな光と雨が降ったみたい。息ができる。
展示に来てくれた方がチョコレートをくれた思い出が、ぽこんと浮かんだ。わたしもその方の展示に行くときには、チョコレートを持っていくことにしている。
このうれしさの正体が、その言葉を聞いて少しだけ分かった気がした。
それで、わたしも懲りずに生きていていいのかもしれないと思った。

らくがき漫画集①

ここ最近、なぜか急激に増えているらくがき漫画を載せます。