みつめるさきは

 


 
ゆいさんと知り合ったのは、ゆいさんがまだ高校生で、わたしはたぶん浪人生をやめて、清掃員のアルバイトをしていた頃。彼女は出会ったときからずっと少女を描いていた。

いつからだかもう忘れてしまったけれど、わたしは展覧会が苦手になった。絵を見ることも、気づけばすごくむずかしい。落ちついたふりだけできるようになった、かもしれない。絵を見ること、なんでそんな簡単なことができないんだろうと、たまに落ち込む。わたしが落ち込む原因は、そんなあほらしいことばかり。
展覧会の会場では、視線や物音が気になって、気配りの不安が押し寄せてくる。その場から走って逃げたくなる。深呼吸をして修行のように長い時間見つめていなければ、ほんとうに絵が見られない。でも、会場には他のたくさんのお客さまがいらっしゃる。そんな中で独り占めすることは、意識が散り散りになってしまって、できない。
それでも、時間制限があるわけでもなく、予約制でもなく、ふらっと入ったギャラリーでたった1枚の絵を長い時間見つめることが叶う会場が、ごく稀にある。そんなとき、わたしはしずかに感謝する。
絵をそのように観られたときにはじめて、そこに蓄積した時間を、質感や絵の具の厚みを知る、その人の架空の側面の事実を知る。
 
昨日はゆいさんの絵をゆっくり鑑賞させてもらったけれど、 それでもやっぱり観きれていなくて、何度展示に赴いたって観きれるわけがないと思って、いただいた冊子を開いた。質感や絵の具の厚みはわからないけれど、遠くなった気配とともに猛烈な証拠が、わたしの手によって淡々と過ぎて戻って。言葉にならない感情が喉まで押し寄せるから、どうにもならず写真に撮った。
 ゆいさんの描く絵のなかの少女たちは、遠くを見つめながらそこにいる。答えがなくて、迷いのまん中で、誰からの承認もないままに、封じ込められたみたいに。
わたしはどういう絵が良い絵でどういう絵が悪い絵なのか、価値ある絵とはどういうものなのかわからない。だからなんて感想を述べたらいいかさっぱりわからない。識別せずにそのままのすがたを捉え続ける彼女のまなざしを、わたしはただただ、ありがとうと思う。