わからないまま歩く

 


昨日は1年でいちばん大切な日。
2023年にさようならだったから今年で丸二年。ゼェハァしながら たまに動けなくながら なるべく振り返らずに走った、かなあ。
 
大切だったとはいえ、とくになにかすることもないけれど。
ひさしぶりに目を閉じて、2022年の実家の妹のベッドの上で寝てる猫をゆっくり撫でた。頭の上とあごの下がお気に入りだった。たくさん撫でると、ちいさくごろごろ、言ってくれる。あの時間大好きだった。わたしはもう別に泣くこともなく、猫はごろごろあたたかい部屋で、今日もかわいい顔で穏やかに生きている。
 
猫は人間のことばをしゃべれないのに、わたしはずいぶん心を開いていた、幼少期。それってすごいよなーと昨日自転車を漕ぎながらふしぎに関心した。心の友だちのようで、なんでも分かってくれている気がして、依存していたレベルかもしれない。今も変わらずだが、子どもの頃、本当に大好きだった。
 
振り返ったとき、ほんとうだった感情に、思い出せなくてわたしの頭のAIが生成し出した「でたらめ」の思い出が上書き保存されそうで恐れていたけれど、まあ、もう、大丈夫だろう、という気が、最近はしてきてる。ほんとうのこととか、それをおぼえていることとか、そういう純度の高い気がすることは大切だが、今こうして生きている事実には、当たり前にかなわない。だって今ここにいる理由そのものだから、忘れたってかまわないじゃないかと。恐れることはない。恐れることはないけどやりのこしたことはどんどん出てくる、会えるならばいつだって会いたい!
 
うまく描けない花をがんばって描いたら、目の前に咲いてる花と全然ちがっていて、でも完成ということにした。投げやりのつもりはなくて、これが自分のせいいっぱいだと思った。同じ花を描くことは二度とできないけど、きっとまた出会うだろうと、信じることが出来るようになってきた。…出来るようになってきたっていうのは、ちょっと行きすぎかもしれない。信じる、なんて言葉よりもっと気軽な気分が本当はいい。
それにしてもいつだって、進む道が合っているのか分からない。分からない中を歩くしかないんだと思う。

引き続き、あの日から今までのわたしの心の動きをしっかり見つめながら生きます。
いつも見守ってくれているみなさま、どうもありがとう。

2025-1-16
(2025-1-15のための記録)